第一次大戦が終わると、英仏は中東地域を支配する
シリアはフランス統治下に入る

(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)

第一次世界大戦に先立って、オスマン・トルコ帝国では、1908年に青年トルコ党による立憲革命が成功していた。

青年トルコ党は、スルタン(皇帝)の専制政治を打破して、中央集権化とトルコ・ナショナリズムの推進を目指していた。

(*この時代は、シリアはオスマン帝国の一部です)

当時シリアでは、知識人の間でアラブ民族意識が目覚め始めていた。

知識人の多くは欧米の教育を受け、アラブの歴史・言語に関心を寄せていた。

やがて、公然とオスマン帝国に反旗をひるがえすグループが出てきた。

オスマン政府は、激しい弾圧で応えたため、活動家は地下に潜っていった。

1861年に獲得されていたレバノン山岳地の特権は廃止され、トルコの一州に組み込まれた。

シリア独立を目指す最初の秘密結社に、「アル・ファタット(青年アラブ協会)」がある。

これは、1911年にパリで結成され、14年にダマスカスに移転した。

会員は200人を超え、会員にはメッカ太守に任ぜられていたハーシム家の当主フセインの第三子ファイサルもいた。

1915年5月に、会員の多数が逮捕され、21人は公開処刑された。

こうした弾圧は、かえってオスマン帝国からの独立運動に拍車をかけた。

第一次世界大戦が始まると、1918年10月に、ファイサルは反乱軍を指揮してダマスカス城に入城した。

(ファイサルは、イギリスに支援されていた。

 イギリスは敵国であるオスマン帝国を倒すために、
 オスマン帝国からの独立を目指すファイサルを支援した。)

第一次大戦が終わると、ファイサルは戦後処理を話し合うベルサイユ会議に出席した。

しかし、イギリスが約束していたアラブの独立は守られず、悄然と帰国した。

イギリスとフランスは、すでに中東を両国で分割する秘密協定(サイクス・ピコ協定)を結んでいた。

同時にイギリスは、シオニストに対してユダヤ人のホームランドをパレスチナに創設することも(バルフォア宣言によって)約束していた。

(イギリスは、対フランス、対シオニスト、対ファイサル、で別々の約束をするという、三枚舌の外交を展開していた。)

シリアは、こうした英仏の動きに反発して、国民全体会議を開設し、1919年7月に『ファイサルを王としてシリアを独立させるように要求する事』を決議した。

ファイサルは渡欧して、シリア独立を理解させようとしたが、英仏は一顧だにしなかった。

ここにおいて、1920年3月に国民全体会議は、ファイサルを王とするシリア国(パレスチナとレバノンを含む地域)の独立を一方的に宣言した。

英仏はこの宣言を拒否し、同年4月にはサン・レモ会議を開いて、これらの地域を委任統治という形で支配する事を決めた。

(サン・レモ協定の成立)

フランス軍はシリアに進撃し、7月25日にダマスカスを占拠した。

ファイサルは亡命した。

結局、サン・レモ協定に基づいて、イギリスは「パレスチナ、ヨルダン、イラク」を掌中にし、フランスは「シリア、レバノン」を獲得した。

(2015年2月5日に作成)


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