(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)
フランスによるシリア・レバノンの統治が始まると、フランスは自己の力を維持するために、『宗教間の対立を助長することで、ナショナリズム運動を弱体化させること』を政策とした。
フランスの統治政策の特徴は、『徹底した分割統治』である。
まずフランスは、1920年8月に大レバノンの建国を行い、シリアから分離させた。
レバノンでは22年に、30人からなる宗派別に選出された国民議会を設置した。
26年には、憲法をフランスが起草して、公布した。
フランスは、レバノンにおいては、キリスト教マロン派が優位になる体制を作り上げた。
シリアにおいては、1920年9月にアラウィ派の領土を新設した。
(この領土は22年7月に、アラウィ国となる)
残りのエリアは、ダマスカス国とアレッポ国に分割した。
22年4月には、ドルーズ派の国となるドルーズ国が作られた。
アレッポ国の内部には、アレクサンドレッタ県が設けられ、特別の地位が与えられた。
このエリアには、トルコ人が多数居住しており、強い自治権が付与された。
22年7月には、ダマスカス国、アレッポ国、アラウィ国の3ヵ国は、『シリア連邦』を形成することになった。
しかし24年12月になると、シリア連邦は廃された。
そして翌年1月には、ダマスカスとアレッポを『シリア国』として統合した。
1925年以降は、4つに分割されて統治された。
① レバノン国 (後にレバノン共和国になる)
② シリア国 (後にシリア共和国になる)
③ アラウィ国 (33年以降はラタキア政府と呼ばれる)
④ ドルーズ政府
1936年には、ラタキアとドルーズは併合された。
しかし39年には、再びラタキアとドルーズは独立に戻された。
そして42年に、再び両者は併合され、ようやく今日のシリアが誕生する事になった。
こうした目まぐるしい分割と併合は、宗派間の軋轢をフランスが利用した結果であった。
フランスは、宗派対立を拡大させる事で、独立と統一を求めるナショナリズムを抑圧したのだ。
フランスの分割統治の露骨な例は、少数派のアラウィやドルーズから兵を集めて、「トループ・スペシアル」という特別部隊を作ったことである。
この部隊を鎮圧や治安維持に用い、スンニ派と対立させた。
(2015年2月5日に作成)