白蓮教の乱

(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)

『白蓮教』は、仏教の一種で、釈迦ではなく弥勒仏を信仰した。

その説くところは、こうであった。
「今は釈迦仏教の時代だが、やがて天の劫が起こると、弥勒仏教の時代となる。だから弥勒仏を信仰し、お賽銭を出しておけ。そうすれば弥勒仏教の時代になれば何十倍、何百倍になって戻ってくる。」

18世紀末の貧苦の農民たちは、白蓮教にすがって入信し、たちまち信徒は数万人になった。

信徒が急増して劫が起きるのを待つようになると、白蓮教の首脳部は人為的に劫を起こさざるを得なくなった。

そして反乱を起こして、役所や金持ちの家を襲い、獲得したものを分配した。

「白蓮教の乱」は、こうして1796年に湖北省で始まり、たちまち四川省、陝西省、湖南省に広がった。

迎え撃つ清朝の軍隊は、俸給が安いので兵士はアルバイトに熱を入れ、将官たちは兵士の欠員が出ても補充しないなど、堕落していた。
だから反乱を鎮圧できない。

そこで町や村の有力者(地主や富商)である「郷紳」は、カネを出し合って自衛団を組織した。

しかし自警団は、自分たちの町や村を守るだけで、逃げる白蓮教徒を追いかけはしない。

だから清政府は、臨時の兵士を募集して、白蓮教徒と戦わせた。
これが「郷勇」である。

郷勇の働きもあって、白蓮教の乱は1804年頃に平定された。

中国には、「良い鉄は釘にしない、良い人は兵士にならない」ということわざがある。

つまり、優秀な人は兵士にならない伝統がある。

郷勇たちも、住所不定の者たち(流民あがり)が多かった。
兵士になれば食べれると思って郷勇になった者が多かった。

それを率いる下士官も、ヤクザ者が多かった。

このため郷勇の実力はいまいちだったが、それでも乱が鎮まったのは、白蓮教にいる者が「郷勇のほうが待遇が良い」と考え移籍したからだった。

だから乱が鎮まって、郷勇が解散になると、元流民の彼らは配給されていた武器を隠し持ってあちこちに散らばり、世相はさらに物騒になった。

あぶれ者の彼らは、秘密結社を創って勢力を拡大した。

もう白蓮教の名は使わず、「八卦教」「天理教」「在礼教」「義和拳教」の名が使われた。

これら白蓮教系の秘密結社は、迷信的な北方の人に好まれた。

それに対し揚子江以南の人々は、政治的な秘密結社の「天地会」を好んだ。

天地会は宗教色は乏しく、いたって政治的である。

天地会は、その系統に「三合会」「三点会」「哥老会」「江湖団」などがある。

白蓮教の乱の後は、世相の混乱は増すばかりであった。

それに拍車をかけたのが、イギリス人が貿易の新商品として持ってきた「アヘン」だった。

(2022年2月13日に作成)

(『世界の歴史9 最後の東洋的社会』三田村泰助の文章から抜粋)

清朝の乾隆帝の末期になると、各地で反乱が起きるようになった。

その初めは、湖南省、貴州省の山岳地帯に住む苗族の反乱である。

清朝は雍正帝の時に、苗族のこの地を領土化したが、それをきっかけに漢民族がぞくぞくと移住して土地を占有した。

これに怒った苗族が、清朝の派遣している官吏を殺したので、討伐軍が送られた。

ところが堕落した清軍は、いっこうに平定できず、周辺から糧食や軍需品を取り立てて人々を困らせた。

たまりかねた湖広総督(湖北、湖南の2省の長官)は、山岳地を苗族に返還するよう皇帝に上奏したほどであった。

苗族の反乱が起きている時に、隣りの湖北省で起きたのが、『白蓮教の反乱』だった。

白蓮教といえば、元朝の末期に暴れ回り、その一員だった朱元璋が元を倒して明を建国している。

明朝は白蓮教を厳重に禁じたので、教徒たちは秘密結社をつくって地下に潜って活動した。

乾隆帝の時代に各地で起きた小さな暴動は、たいていは白蓮教の分派だった。

白蓮教という組織には、罠があった。

というのは、秘密結社だから加入すると抜け出せない。
抜けようとするとリンチに遭う。

また、メンバーだとバレると役人に捕まって打ち首になる。

苗族に続いて起きた白蓮教の反乱は、湖北省で起きたが、瞬く間に河南省、陝西省、四川省、甘粛省の4省にも広がった。

乱の平定にやっきになったのは、乾隆帝の後を継いだ嘉慶帝だけで、大臣以下はすこぶる悠長だった。

直隷総督(河北省の知事)であった那彦成は、「この賊はいなごの襲来みたいで、消えるまで自然に任すしかないでしょう」と言っている。

白蓮教徒たちは、城のある街は攻めなかったので、地方官は城内だけ守ればクビにならないと考え、村落が焼かれても無視した。

清政府はついに、民兵を募集して、それを先頭に立てて、その後に漢民族の軍隊、最後に八旗兵(満州人の軍隊)を置いた。

この情けない戦いが9年間も続き、ようやく白蓮教の乱は鎮まった。

白蓮教の乱と前後して、浙江省、福建省、広東省の海岸地域では、海賊が暴れ回った。

この3省の沿岸部には、大小の島々があり、昔から海賊や密輸団の巣窟になっていた。

この海賊たちを、安南国(現在のベトナム)が後押しした。

安南で新たに王位に就いた阮氏は、中国人の海賊たちを手なずけて安南の官吏に任命し、軍艦を与えた。

そこで海賊団は最盛期には、人数は8万人、大船800,小船1000超にもなった。

のちに安南国は手を引いたが、海賊たちは台湾海峡から東シナ海の一帯を荒らし回った。

最も有名になった海賊は、福建出身の蔡牽である。

海賊団には、沿海の住民たちが味方して、火薬や食糧を売った。
地方官たちも、賄賂をもらって海賊を黙認した。

清朝は、海賊の横行を「艇盗の乱」と呼んだが、白蓮教の乱で手一杯で討伐できなかった。

阮元が浙江省の巡撫に任命されると、たくみにスパイを操り、台風シーズンを利用して海賊を破った。

そして名提督の李長庚の尽力で、1810年(嘉慶15年)に20年にわたった艇盗の乱はやっと鎮定された。

(2022年9月23日に作成)


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