小笠原満男選手の東北復興への活動

(『ZONE 2014年4月号』から抜粋)

小笠原満男の地元・岩手は、東日本大震災で大きな被害を受けた。

高校時代を過ごした大船渡では、多くの人と家が津波に呑まれた。

夫人の実家がある陸前高田では、海に近いエリアは跡形もなく消えた。

震災から4日後に、小笠原は物資を大型車に積んで、陸前高田に向かった。

鹿島アントラーズの反対を押し切っての行動だった。

小笠原 

「高速が通っていなくて、一般道で向かった。
鹿島から1日近くかかった。

現地の人を励まそうと思ったら、向こうから「来てくれてありがとう」とか「皆で有る物を分けるから大丈夫だ」と言われた。

こんな時でも、「自分が、自分が」ってならない。
東北人ってそういう人が多いから。」

鹿島に戻ってから小笠原は、物資支援に力を入れた。

物資の提供を呼びかけ、集まったら送った。

アントラーズのクラブハウスにある10畳ほどのスペースは、支援物資を置く場となった。

時には日付が変わる時間帯まで、仕分けをする小笠原の姿があった。

小笠原

「阪神大震災や中越地震の時は、何もしてこなかった。

いま思えば、本当に申し訳ないし、恥ずかしい。

これからは、どこかで災害があったら絶対に協力する。

だから、今回はご協力をお願いします。」

時には目に涙を浮かべて、小笠原は協力を訴えた。

被災地では、学校や広場のスペースに仮設住宅があるため、子供達の遊ぶスペースがない。

小笠原

「サッカー交流会で子供に『サッカー頑張れよ』と声を掛けたら、『頑張りたいけど、サッカーをする場所がない』って。

でも、子供達にサッカーを諦めてほしくない。
だから、出来るだけの事をしたいと思う。

今は瓦礫が片付いて、見た目はきれいになってきているよ。

でも、まだ更地が多くて、仮設住宅で暮らす人は多い。

ある子から、『Jリーガーを目指す』って言葉を聞けた。

大災害だったから、将来に向けた言葉をなかなか聞けなかった。
だから嬉しかったよね。

『俺らを超える選手になれよ』って声を掛けた。」

○ 村本尚立のコメント

小笠原満男さんは、若い頃から素晴らしい選手でしたが、プレイにどことなく遠慮とか覇気の無さがある感じで、目つきはいつも目が曇っている様に思えました。

私にとって小笠原さんは、「覚醒すれば凄そうなのに、覚醒しない選手」という印象でした。

東日本大震災が起きて、被災地で活動をしている人物として彼が新聞で取り上げられているのを見た時に、私は驚いたのです。

彼の顔写真を見ると、目は大きく開かれ、目つきにはキラッとした輝きがあり、さらには話す内容にも強い決意が感じられた。

「おおっ! 小笠原よ、ついに覚醒したか!」と、この時に思いましたねー。

サッカーじゃない所で覚醒するのが、いかにも小笠原さんらしいと思います。

(2014年11月14日に作成)


『サッカー』 目次に戻る

サイトのトップページへ行く