ザッケローニ監督と長谷部キャプテンの4年間

(『ZONE2014年8月号』から抜粋)

2011年1月のアジアカップ初戦。

ヨルダン戦のキックオフ前のロッカールームは、緊張感に欠けていた。

そして、格下相手に1-1で引き分けてしまった。

翌日にキャプテンの長谷部誠は、選手だけのミーティングを緊急開催して、こう伝えた。

「自分は、ジーコさん・オシムさん・岡田さんの下で代表を経験したけど、今ほど緊張感のないチームはなかった。

ふざけるのと明るくやるのは違う。

緊張感を作れていないのには、自分にも非があると認める。

今後はそれを意識してやっていこうと思うから、協力してほしい。」

この後、チームは一丸となり、アジアカップの優勝を得た。

2010年W杯の直前にゲーム・キャプテンに任命された長谷部だが、当初はチーム・キャプテンの川口能活をサポートする立場だった。

「自分は何もしていない」と、W杯後にも言った。

だが、このアジアカップを分岐点にして、明らかに振る舞いが変化した。

2011年9月のウズベキスタン戦では、一部の若手がロッカールームでふざけたため、雷を落として引き締めた。

長谷部

「アジアカップの初戦で1度、ザックさんからロッカールームでの態度を怒られていた。

それを繰り返したら、プロではないですよね。

ただし、こうなったのはキャプテンの責任でもある。

僕はなるべく言葉に頼らず、オーラで引き締めたい。

言葉に頼らざるを得なかったのは、悔しかったし情けなかったです。」

長谷部はザッケローニ監督と信頼を深めていき、頻繁に意見交換をするようになった。

2012年5月のW杯アジア最終予選の直前にも、危機が訪れた。

日本代表は埼玉で合宿を行ったが、ホテルに缶詰になり、マンネリ感から集中力が落ち、大学生相手の練習試合でも思うようなプレーができなかった。

ザック監督は、「本番モードになっていない!」と怒りを爆発させた。

長谷部は監督室に行き、「選手たちが疲れているので、リフレッシュ・メニューに切り替えましょう」と提案。

ザックは受け入れ、翌日はサッカー・バレーで気分転換を図った。

さらに初戦の翌日には、外出して焼肉を食べる事も許可した。

長谷部「最終予選で好スタートをきれたのは、あのリフレッシュが大きかった」

この頃になると、ザックは「長谷部なしではチームをまとめられない」と公の場で発言し、信頼を隠さないようになった。

2013年6月のコンフェデ杯でも、2人の会談がチームを救った。

この大会では、初戦でブラジルに0-3で負けた。
日本は前年にもブラジルに0-4で敗れており、その反省を基に臨んだのに大敗してしまった。

初戦のあと、チーム内には「このままではW杯で通用しないのでは?」との不信感が生まれた。

ザック監督のほうも、本田圭佑らの意識が個に偏って、チームの約束事を守らない事に、不満を抱いた。

ザックは、長谷部を部屋に呼び、正直に告白した。

「自分は、まだ日本に3年しか居ない。
だから、日本人の細かい性格まで分からない。

ブラジルの弱点を分析して対策を練習したのに、全然ピッチで表現していなかった。

私は、『1人が3人を抜いてゴールを決めるよりも、組織で崩すサッカーこそ日本に相応しい』と考える。

日本の強みは、勇気を持った組織だ。

お前たちなら、世界のトップ相手でも自分達のサッカーができる。

なぜやろうとしないのか?」

この言葉を聞いて、長谷部は感動した。

「これほどまでに、ザック監督は日本を信じているのか」と。

翌日に長谷部は、選手だけのミーティングを開き、ザックの想いを伝えた。

これが、イタリア戦(第2戦)での3-4の好内容な試合ぶりにつながった。

イタリアとの試合後に、長谷部は力強く宣言した。

「今日の試合は、ターニングポイントになる」

その後、代表には柿谷曜一朗や山口蛍が加わり、さらに攻撃的なサッカーを追求していく。

しかし、本田や遠藤保仁が強気なパス・サッカーを志向する一方で、岡崎慎司や内田篤人は「相手の良さを消すことも必要だ」と考えていた。

そのすれ違いが、2013年10月の東欧遠征で頂点に達し、再び危機が訪れる。

セルビアに0-2で負け、続くベラルーシにも0-1で負けたため、選手から不満の声が出た。

長谷部は、主に若手から意見を聞き取り、11月のベルギー遠征では「監督と仲間を信じる」との方針でまとめた。

その結果、オランダに2-2、ベルギーには3-2で勝利し、新たなステージに入った。

長谷部「東欧遠征の難しい時期を無駄にせず、さらに前進できたと思います」

(2015年12月21日に作成)

(『サッカー・マガジン2017年11月号』から抜粋)

日本代表・男子は2010年W杯の後、イタリア人のアルベルト・ザッケローニを新監督に迎えた。

ザックは2010年10月8日のアルゼンチン戦から、指揮をとった。

この試合では、メッシやテベスを擁するアルゼンチンを撃破し、その時のメンバーがザック・ジャパンの主軸となっていった。

ザック・ジャパンが、W杯アジア最終予選の突破を決めたのは、2013年6月4日のオーストラリア戦だが、先発11人のうち、10年10月のアルゼンチン戦と違ったのは、吉田麻也と前田遼一だけだった。

それも吉田はアルゼンチン戦の時はケガで離脱していたし、前田は途中出場していた。

これを見れば、2年半にわたりザック監督のファースト・チョイスは揺るがなかったと分かる。

ザック・ジャパンでは、香川真司、本田圭佑、長友佑都ら主力が海外チームに所属しており、スタメンのほとんどが海外組だった。

しかもその選手たちは、海外のトップ・リーグで活躍しており、豪華な陣容は多くのファンに支持され、「歴代代表で最強」と評されるほどだった。

このチームは、攻撃的なスタイルを追求しながらも、アジア予選を首位で突破し、結果も出した。

ところが、コンフェデ杯にアジア王者として参加したところ、ブラジル、イタリア、メキシコという各大陸の王者に3連敗となった。

これで世界との差を痛感したザック監督は、新戦力の発掘に乗り出した。

2013年7月の東アジア・カップは、国内組のみで参加したが、優勝を飾った。

この大会で代表にデビューした、柿谷曜一朗、大迫勇也、山口蛍、青山敏弘、森重真人、斎藤学は、ザックの信頼を得て、W杯本大会のメンバー入りをすることになった。

ザックにとって誤算だったのは、W杯本大会を目前にした時、主力選手の調子が悪かった事だ。

負傷を抱えるキャプテンの長谷部誠や、DFの内田篤人と吉田麻也は、開催国のブラジルに入ってからもコンディション調整に追われた。

さらに攻撃の柱である本田と香川も、所属クラブで出場機会の少ない状態となっていた。
チームの心臓になっていた遠藤も、本調子ではなかった。

FWで大久保嘉人をサプライズ招集したのは、ザックの不安の裏返しだったのかもしれない。

ザック監督のグループの和を重んじるチーム作りは、華麗なパスワークなど高い連動性を生み出したが、中心選手への依存度を高くしていた。

主力選手が不調の中、狂った歯車は元に戻らず、自分たちのサッカーを見せられずに、W杯では1分2敗でグループリーグ敗退となった。

(※率直に言って、中心選手への依存度が高くなるのは、チーム作りを進めれば当たり前のことで、どのチームでも同じでしょう。

問題なのは、ザックが信頼してチャンスを与え起用し続けた選手たちが、W杯に向けてコンディションを整えられなかった事です。

ザックとファンの信頼に、主力となっていた選手たちが応えられなかった、これが真実だと思います。)

(2023年4月14日に加筆)


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