(『タックスヘイブンの闇』から抜粋)
1945~50年頃は、イギリスにケインズ理論が導入された、唯一の時代であった。
労働党政権の大蔵大臣だったヒュー・ドールトンは、イングランド銀行を国有化し、多くの改革をした。
彼は、低金利政策を採り、「低金利は、金利生活者の死につながる」というケインズの言葉をよく引用していた。
ドールトンは、「金利生活者ではなく、生産者の側に立つ必要がある」と主張し、銀行界ともろに対立した。
こうした中、スイスでケインズ理論への挑戦が始まった。
1947年4月に、クレディ・スイスのアルベール・フノルドは、自由主義の復活を目指して、モンペルランに36人の学者を集めた。
中心となった学者はフリードリヒ・ハイエクで、誕生した『モンペルラン協会』は、ケインズ理論への反撃基盤となっていく。
参加者の中にはミルトン・フリードマンもおり、この協会はスイスの銀行や保険会社から資金を提供された。
モンペルラン協会は、後にグランチェスター卿となる、アルフレッド・スエンソン=テイラーを通じて、シティ・オブ・ロンドンとも繋がりがあった。
イングランド銀行は、1946年に国有化された。
だがその後も、政治家が支配する事はできなかった。
政府にはイングランド銀行の総裁を解任する権限はなく、内部は秘密のままである。
イングランド銀行は、幹部を民間会社から引き抜いており、同じ人間がイングランド銀行と民間会社を行ったり来たりしている。
この銀行は、シティ・オブ・ロンドンとグローバルなオフショア・システムを守る役割を果たしてきた。
(2014.3.12.)