(『タックスヘイブンの闇』から抜粋)
アメリカの銀行を長く縛ったのが、『グラス・スティーガル法』である。
1933年に制定されて、有益だったので1999年まで存続した。
1999年にクリントン大統領とロバート・ルービン財務長官の下で、この法律は廃止された。
だが、廃止されるずっと前から、アメリカの銀行はロンドンで取引をする事で、この法律から逃れていたのだ。
イングランド銀行の外国為替部門を担当し、ユーロダラーを創ったジョージ・ボルトンは、ユーロダラー市場の潜在力を見てとり、1957年2月にイングランド銀行総裁を辞職した。
そして、ロンドン南アメリカ銀行(BOLSA)に入社した。
3年後には、BOLSAのユーロダラー預金は2.5億ドル(当時では莫大な額)に達し、この市場の最大のプレイヤーとなった。
BOLSAは、バハマやケイマン諸島といったタックスヘイブンに会社を設立し、ドル預金を吸い上げて、規制の無いユーロダラー市場に運んだ。
1960年代になると、アメリカの赤字は膨れ上がった。
その一因は、大量のドルがユーロダラー市場に流れたからである。
ユーロダラー市場は、63年に『ユーロボンド』が誕生すると、さらに活気づいた。
この金融商品は、無記名債券で、持っている者が所有者とされる。
所有者が記録されないため、脱税にうってつけなのだ。
無記名債券は、きわめて有害とされ、多くの国が禁止している。
ユーロボンドは、所得税のかからないルクセンブルクなどで換金された。
1960年代に入ると、アメリカはユーロダラー市場に危惧を抱き、忠告をした。
ニューヨーク連銀の副総裁だったジェームズ・ロバートソンは、「ユーロダラー市場は、タックスヘイブンと繋がっている。イングランド銀行は、なぜ規制をしないのか。」と指摘した。
しかしイングランド銀行は、まったく無視した。
1963年7月18日に、ケネディ大統領は、アメリカ・マネーの流出を食い止めるために、外国債券の利息に課税をしようとした。
だがこれは、正反対の結果をもたらした。
ユーロダラー市場に、マネーがどっと流出したのである。
この頃には、ユーロダラー市場の最大のプレイヤーは、アメリカの銀行になっていた。
アメリカ財務省は、「ユーロダラー市場は、国際収支の不均衡の元凶だ」と断定し、査察官を派遣した。
ロンドンの反応はいつも、「余計なお世話であり、心配はいらない」だった。
アメリカは結局、見逃すことにした。
その理由の1つは、アメリカの専門家の多くが「ユーロダラー市場はいかがわしく、そのうち消滅するだろう」と考えていたからである。
この市場は、影の銀行システムの誕生を、大いに促進してきた。
ユーロダラー市場は拡大し続けて、1970年には460億ドルに達した。
70年代に石油価格が暴騰すると、産油国のマネーが流入してきた。
ユーロダラー市場は、1980年には5000億ドルに達し、88年には2.6兆ドルとなった。
1997年には、国際金融の90%がこの市場を経由するまでになった。
この市場への課税や規制は、失敗してきた。
ユーロダラー市場は、今まであまり注目・研究されてこなかった。
(2014.3.13.)