アメリカの誤った政策⑨
ユーゴへの介入

(『ノーム・チョムスキー』リトル・モア刊行から抜粋)

質問者

アメリカのユーゴスラビアへの介入については、どうお考えですか。

チョムスキー

アメリカの方針は、何度も変わりました。

最初は、統一されたユーゴスラビアを一番強く支えていました。

スロベニアとクロアチアが離脱すると、ドイツはすぐに両国を承認しました。

ドイツは、その地域の利権を主張して、少数派のセルビア人の権利をまったく無視しました。
このドイツの態度に力を得て、惨劇が進められたのです。

アメリカは、真っ先にそれに反対しました。

大国が駆け引きをくり広げる中で、ついにアメリカはボスニアをチェスの手駒として使う決意をしました。

それは、アメリカ国務長官サイラス・ヴァンスと英国のデビット・オーエンが進めていた平和的な解決を、ぶち壊してしまいました。

ヴァンスとオーエンの進めていた和平案は、その後の何年間もの惨劇を経た末に到達したものと、さして変わりありません。

アメリカは、チェスの手駒となったボスニア政府に、その和平案を受け入れないように圧力をかけました。

そして、何年も続く戦争になりました。

結局はアメリカが介入して、デイトン協定(ボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定。1995年12月に調印)を押しつけました。

NATOのコソボ爆撃に関しては、様々な資料が残っています。

1999年1月、すなわちコソボ爆撃の2ヵ月前ですが、イギリス政府は「コソボでの虐殺の大半は、KLA(コソボ解放軍)の仕業だ。KLAが境界を越えて侵入し、セルビア人を攻撃した。」と説明しました。

ラチャク村の虐殺(セルビア兵によるコソボ人の虐殺)があった後でしたが、イギリスは姿勢を変えず、アメリカと一緒にKLAをテロ勢力と呼んでいました。

この後2ヶ月間に、何の変化もなかった事は、記録から明白です。

それが、コソボ爆撃が開始されると、残虐行為が盛大にくり広げられるようになりました。

(NATOは99年3~6月にコソボを空爆した)

国際司法裁判所の記録を見ると、残虐行為が爆撃の後に行われた事が分かります。

ですから、米英が難民の帰還支援をしようと、それは人道的な行為ではないのです。

(2015.7.16.)


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