プーチンの哲学とエネルギー利権(柔道との関わり方)

(プーチン 人間的考察 木村汎著から)

2012年3月1日(ロシア大統領選挙の3日前)に、プーチン候補(当時は首相)は各国マスメディア代表者との会談で、「ハジメ」「ヒキワケ」などの柔道用語を連発した。

「大統領に当選したら日ロの領土交渉に取り組む」というイメージを作ろうとしたのだ。

プーチンの言う「引き分け」は、北方領土をどのように解決する案なのか。

日本側はその答えを知りたがり、13年2月に安倍首相の特使として森元首相が訪ロした。

プーチンが考えているのは、『日本は歯舞と色丹の2島、ロシアは国後と択捉の2島』だろう。

それが彼のいう「引き分け」だろう。

プーチンは、「自分は柔道の愛好家である」と喧伝している。

しかし、日本の武道愛好家=日本びいきの人ではない。

例えばロシア文学を愛読するすべてが、ロシア政治に好意的とは限らない。

さらに言えば、プーチンは柔道の教えるスポーツマンシップや「自他共栄の精神」を実践している人物だろうか。

そもそも彼は、柔道を始めた動機は純真なものではなかった。

小・中学校の時代は遅刻がちの不良少年で、ストリートで過ごすことが多かった。

彼の居たペテルブルク(当時はレニングラード)のストリートは、「ジャングルの掟」が支配する世界で、小柄で細身の彼はいじめられる存在だった。

プーチンは自分の身を守るためにボクシングを習い始めたが、鼻を折ってしまいサンボに転向し、そこから柔道に関心を移した。

彼は2003年のインタビューでこう話している。

「私は子供の頃、通りで育ちました。
 そこでは揉め事が起きたら喧嘩になり、強い者が正しいことになるのです。

 私はいい顔をするために身体を鍛えようとし、小柄でしたから柔道に辿り着いた
 わけです。」

プーチンが柔道を始めた動機は、功利主義的なものだった。

プーチンは、彼の伝記を執筆したオレグ・ブロツキイとのインタビューで、こう語っている。

「通りは、私にとって大学で、そこから教訓を学んだ。

 1つ目は、力の強い者だけが勝ち残ること。

 2つ目は、勝とうという意志が肝要であること。

 3つ目は、闘う場合は最後までとことん闘わねばならないこと。

 これらは有名なルールであり、しばらく後になってKGBが私に教えようとした事
 だが、少年時代の喧嘩からすでに習得ずみだった。」

プーチンは24歳の時に、レニングラード市の柔道チャンピオンになったが、コーチだったアナトーリイ・ラフリンはこう証言する。

「プーチンの勝とうとする意志は、人並みはずれて強かった。

 彼はもっぱら頭を使う選手で、様々な技を駆使したが、相手の予期しない動作と
 スピードの速さが強さの秘密だった。」

プーチンは大統領になった後、武装グループとの対決姿勢を示してきた。

2002年10月のモスクワ劇場の占拠事件の時も、04年9月の北オセチアでの学校占拠事件の時も、チェチェン系武装グループとの話し合いを拒絶し、特殊部隊に突入を命じた。

そのため両事件とも、100人以上の人質が犠牲となった。

学校占拠事件の時は、武装戦力を鎮圧したあとにプーチンが述べた「弱い者は打たれる」との言葉が一躍有名になった。

プーチンは事件後にこう言っている。

「世論に対して少しでも譲歩すると、弱さの証明になる。

 いったん弱さを見せると、社会は我々を喰い尽くそうとするにちがいない。」

(かなり心を病んでいる人ですねー)

プーチンは2012年3月1日に、日本の記者にこう述べた。

「私が大統領に返り咲いたら、私たちは両国の外務省を招集し(平和条約の交渉の)
 ハジメ!の指示を出そう。」

この発言の3日後に彼は大統領に当選したが、平和条約の交渉については翌年4月末にそれらしき話が発表された。

つまり安倍首相がモスクワを訪問し、日ロ首脳が調印した「共同声明」には次の一文があった。

「平和条約問題の解決策を作成させるとの指示を、外務省に共同で与えることで
 合意した。」

プーチンはトップダウンの手法を基本にしているので、外務省の役人に丸投げするこの態度は、消極姿勢を示しているといえる。

実際に、その後安倍とプーチンの会談は(2015年4月時点で)10回も行われたが、安倍が平和条約をもち出すたびにプーチンは逃げ口上をくり返した。

残念ながらロシアは、領土問題を日本から経済協力を引き出すエサにしている。

プーチンは柔道を通じて、交友関係を広げた。

彼の柔道コーチや仲間にはユダヤ人が多く、その事がユダヤ人について否定的なニュアンスの発言をした事がない一因らしい。

プーチンはユダヤ人への偏見がないようで、一時的に大統領職を譲ったドミートリイ・メドベージェフはユダヤ系との噂がもっぱらだ。

プーチンの柔道仲間で最も有名なのは、ローテンベルク兄弟だ。

兄のアルカージイはプーチンよりも1歳年上、弟のボリスは4歳年下だ。

この兄弟は、プーチンが少年時代に通った道場で親しくなり、友情がずっと続いている。

アルカージイは現在、ロシア柔道連盟の副会長をし、モスクワのディナモ・アイスホッケー・クラブ会長でもある。

ローテンベルク兄弟は貧しい家庭の出身だが、今日ではフォーブス誌の億万長者リストにのる大富豪となっている。

兄弟は銀行や建設会社をもち、パイプライン建設にも進出している。

富の源泉になっているのは、ガスプロム社との繋がりだ。

ガスプロム社は、ロシア国有の独占ガス企業体で、会長職はかつてはドミートリイ・メドベージェフが務め、現在はビクトル・ズプコフ元首相が務めている。

プーチン政権と闘った故ボリス・ネムツォフによれば、ソチ五輪に投じられた予算のうち15%(74億ドル)の契約が、ローテンベルク兄弟の会社と行われたという。

おそらく兄弟の経営する企業からは、プーチンとその側近たちに相当な額のキックバックがされているだろう。

プーチンのペテルブルク時代からの知り合いで、柔道仲間との見られているのが、ゲンナージイ・ティムチェンコである。
彼も大富豪になっている。

ティムチェンコはソ連時代は対外貿易省に勤めていて、貿易自由化になるとレニングラード州で石油輸出企業「キネックス」を創設した。

1991年にソ連を食糧危機が襲った際、キネックスはレニングラード市から石油を輸出し、それと交換で同市民の食糧を入手することになった。

このバーター取引を指示したのは、当時はレニングラード市役所の対外関係委員会の議長をしていたプーチンだった。

ティムチェンコは97年に石油会社「グンボル」を設立し、プーチンが大統領になると石油輸出を一手に請け負うようになった。

石油輸出の30%を任され、「世界第3位のオイル・トレーダー」へと躍進した。

ティムチェンコは、民間天然ガスの最大手「ノヴァテク」も所有している。

ノヴァテク社は2013年12月に、LNGを海外輸出する免許をロスネフチ社と共に取得した。

この免許はそれまではガスプロムにしか認められていなかった。
つまり、ガスプロムに独占させていたガス輸出を、ロスネフチとノヴァテクにも取り扱わせる事になった。

ロスネフチのトップであるセーチンと、ノヴァテクのトップであるティムチェンコは、プーチンと非常に親しい。

ティムチェンコは2014年版のフォーブス誌で、153億ドルの資産を持つ世界で61位の大富豪と評された。

5年前は4億ドルの資産だったので、急成長である。
この大成功は、ひとえにプーチンとのコネに基づく。

かつてクレムリンのスポークスマンだったスタニスラフ・ベルコフスキイによれば、プーチンはグンボル社の株式の75%を所有する「秘密の投資者」だという。

ローテンベルク兄弟とティムチェンコは、プーチン期に生まれた財閥であり、「プーチンの運び屋」と綽名されている。

この事実があればこそ、オバマ政権は2014年3月に、ローテンベルク兄弟とティムチェンコを対ロ制裁の対象にした。

プーチン政権がクリミア半島を強引に編入したことに対して、オバマ政権はこの3人のアメリカ国内の資産を凍結し、アメリカへの渡航も禁じた。

ところがティムチェンコは1日前にこのニュースを知り、グンボル社の共同経営者のトルビョン・トルンクヴィスト(スウェーデン人)に自分の持ち株(44%)を売却してしまった。

ティムチェンコは14年4月に、「露中ビジネス協会」のロシア側代表に任命された。

この人事は、対ロ制裁の犠牲になったことへの弁償だったのではないか。

さらに言えば、「欧米市場がなくなっても、アジア市場があるさ」とのメッセージだったかもしれない。

プーチンの柔道仲間には、政界に進出した者もいる。

その代表格はワシーリイ・シェスタコフだろう。

プーチンより1歳下で、プーチンと共著で2000年に『ウラジミール・プーチンと柔道を学ぼう』を出版している。
現在は準与党の『公正ロシア』所属で下院議員をしている。

2014年にシェスタコフの息子イリアは、ロシア漁業庁の長官に任命された。

イリアは国有のガスプロム社を経て農務省に入り、わずか35歳で漁業庁長官となった。
露骨な縁故人事と見られるのも仕方なかった。

以上の柔道人脈を見れば、プーチンと柔道の関わりがスポーツ愛好精神に基づくとは評しがたい。

「柔道マインド」を学んだ人物とはいえない。

(2017年6月3~4日に作成)


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