ムハンマドの生涯⑩
メッカは報復戦を仕掛けてくる 激闘をくり返す

(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)

ムハンマド軍は、624年のバドルの戦いでメッカの大隊商を破り、略奪に成功した。

翌625年に、メッカ軍3000人が、メディーナから5kmのウフドを攻めた。

バドルの戦いの報復に来たのである。

この『ウフドの戦い』では、メディーナ側は敗北した。
ムハンマドも負傷した。

この戦いの後、神は啓示の中で「信仰心が薄かったから敗れた」と指摘し、イスラム防衛のための聖戦(ジハード)を薦めた。

627年4月には、メッカ側はユダヤ教徒も引き入れて、1万人の大軍でメディーナを攻撃してきた。

守るメディーナ側は3000人で、町の周辺にハンダク(塹壕)を掘って防衛態勢をとった。

さらに、南方の防衛はメディーナのユダヤ教徒のクライザ族に頼んだ。

しかし、メッカ軍が攻撃してくると、クライザ族は寝返ってメディーナを攻めた。

この『ハンダクの戦い』では、メッカ軍は3週間に渡ってメディーナを包囲し、糧食が尽きて撤退した。

メッカ軍の撤退後、ムハンマドはクライザ族を包囲し、降伏させた上で成人男子600人をすべて処刑した。
こうして、ユダヤ教徒はメディーナから追放された。

ムハンマドはハンダクの戦いの後、北方のシリア・イラク方面に軍を派遣し、メッカの隊商を襲撃するなどの作戦を行った。

勢いづいたムハンマド軍は、628年5月には北方にあるハイバルのユダヤ教徒のナディール族を急襲し、服従させた。

彼らには、共存を許すかわりに、ナツメヤシの収穫の半分を税として支払わせる事にした。

(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)

バドルの会戦で負けたアブー・スフヤーンは、翌625年の3月に、3千人の大軍を率いてメディーナを攻めた。

ムスリム軍は町中で迎え撃つ作戦だったが、ウフドの丘に布陣した敵軍が麦畑を荒らすのを見ると、ムハンマドは出撃を命じた。

ムスリム軍は敗れて、75名の戦死者を出してメディーナに逃げ帰った。

627年には、メッカ軍はユダヤ教徒を味方に引き入れて、7500人の大軍でメディーナを攻めた。

ムハンマドは3000人の軍勢の動員に成功し、イラン人の弟子サルマーンの意見を容れて、町の周囲に塹壕(ハンダク)を掘り、そこで迎え撃った。

メッカ軍は突撃を試みたが塹壕を越えられず、4月半ばに退却した。

メッカが総力をあげて臨んだ遠征の失敗により、メッカとメディーナの立場は逆転した。

ムハンマドは、ハンダクの戦いで勝利した後、協力しなかったユダヤ教徒のクライザ族を攻めた。

同年5月に20日以上の包囲をし、男は皆殺しにして、女と子供は奴隷にした。

その他のユダヤ教徒は、逆らわないのでメディーナに留まるのを認めた。


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