オサマ・ビンラディンの略歴

(以下はドキュメンタリー番組『私はオサマ・ビンラディンに会った』
2004年・英国制作からの抜粋
2004年4月10日にノートにとり勉強した)

🔵アフガニスタンでソ連と戦う

オサマ・ビンラディンの一族は、父ムハンマドの代にサウジアラビアに移住した。
そして建設業で大儲けして財閥となった。

ムハンマドには沢山の妻がいて、オサマの兄弟は50人以上もいる。

つまりオサマは大富豪の子供だ。

オサマはサウジアラビアのジッダで育った。

国立大学に進学し、急進派の教師の影響を受けた。

1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。

これに対しイスラム教徒は怒り、パキスタンの町ペシャワールにジハード(イスラム教の聖戦)をしようとする者が集まった。
ペシャワールはサウジとの国境近くにある。

オサマ・ビンラディンは、ソ連と戦う聖戦の資金調達をする役につき、サウジとアフガンを往復した。

オサマは、ビンラディン・グループの建設会社から機材を借り、アフガンに運んで陣地やキャンプを作った。

オサマは190cmの長身で、シャイで無口な好青年なのでイスラム兵士に好かれていた。

彼は資金調達を担当していたが、ジャジの戦い(1987年?)で活躍し、戦場でも有能だと認させた。

彼は、エジプト人の過激派リーダーであるザワヒリと会見した。

そして一緒にアルカイダ(基地という意味)を設立した。ソ連がアフガンから撤退する少し前の頃である。

アルカイダは、南イエメンの共産主義体制を倒すのを目的とした。

オサマは、サウジ政府にイスラム戦士を集めて自分の指揮下で活動させるよう求めたが、あっさり断わられた。

1991年の湾岸戦争の時も、オサマはサウジ政府にジハードを呼びかけたが断られた。サウジ政府は米国に援助を求めた。

91年4月に彼はパスポートを取ってサウジを出国。以来二度と戻っていない。

🔵スーダンで活動

サウジアラビアを離れたオサマ・ビンラディンは、スーダンに移住した。

スーダンはイスラム国家を作ろうとしており、オサマは大規模な援助をした。

彼はビジネスマンとして暮らしながら、エジプト人の過激派と接触していた。

オサマはスーダンでテロリストの訓練所(養成所)を作った。

1995年9月にこれがばれて、サウジ政府から市民権を剥奪された。

95年11月にオサマらは、サウジにある米軍施設を爆破した。オサマが首謀者だった。

サウジはスーダン政府に圧力をかけて、オサマを追放するよう要求した。
スーダン政府はこれに従い、オサマはアフガニスタンに移住した。

🔵アフガニスタンで活動

アフガニスタンに行った彼は、1996年1月にメディアを通じてアメリカとサウジにゲリラ戦を行うと宣戦布告した。

オサマはタリバンと同盟したが、あまり関係はうまくいかなかった。

タリバン政権は音楽を禁じ、女性の学校への就学と就職も禁じた。

オサマはキャンプで記者会見を行ったが、タリバンのリーダーのオマル師はこれを激しく批難した。

タリバンはオサマにマスコミとの接触を禁じ、カンダハルに移住するよう命じたが、オサマはこれを拒否した。

アフガニスタンに行った彼は、1996年1月にメディアを通じてアメリカとサウジにゲリラ戦を行うと宣戦布告した。

MI6は代償として、ロンドンに潜んでいるアル・ムカーティラのメンバー12人の名簿を渡した。

その名簿のメンバーこそ、リビアが捕まえようとしている者たちだった。

(以上は2026年5月15日に作成)


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