カンボジアとラオスに侵攻する
国民の反対により撤退する

(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)

人口が650万人でオクラホマ州ほどの大きさのカンボジアは、指導者のシアヌークの下で1965年にはアメリカと断交した。

カンボジアには共産主義者の基地があり、ニクソン大統領は秘かに(議会と国民に知らせずに)爆撃を断行した。

爆撃により、カンボジアの国情は不安定化し、1970年3月にシアヌーク政権は親米派のロン・ノル将軍によって転覆された。

アメリカ軍は1970年4月30日に、共産主義者を壊滅するために、カンボジアへの侵攻を始めた。

しかし、侵攻は失敗に終わった。
アメリカ軍は、共産主義者たちの居場所を突き止めることすら出来なかった。

カンボジア侵攻に対して、全米の大学で大規模な抗議運動が起きた。

1970年5月初めに、オハイオ州の警備隊は、ケント州立大学の4人の学生を射殺した。

さらに10日後に、ジャクソン州立大学の学生2人も、ミシシッピー州警察に射殺された。

この混乱の中、ニューヨーク市では数千人の建設労働者が大統領支持のパレードを行い、反戦派グループに暴力を働いた。

銀行経営者などは、この混乱が株式市場の暴落につながるのを恐れ、リチャード・ニクソン大統領の許に駆けつけた。

ニクソンは、「カンボジアに駐留する米軍は、6月30日までに撤退する」と発表した。

アメリカ議会は、兵士や軍事顧問がカンボジアに入国するのを禁止する決議をした。

これにより、アメリカが東南アジアに介入して以来、16年を経て初めて議会は、大統領の戦争遂行権限に制限を加えられるようになった。

しかしニクソン大統領は、東南アジアへの介入を止めなかった。

当時ラオスは、北ベトナムから南ベトナム(の反政府組織)へ支援するルート(ホーチミン・ルート)になっていた。

そこでニクソンは、ラオスを攻撃する事にした。

1971年2月に、ラオスへの侵攻は始まった。

ラオスは人口が300万人で、オレゴン州ほどの面積である。

すでにアメリカ軍は、1964年以降はB-52でホーチミン・ルートを爆撃していた。

さらにCIAは、ラオスのメオ族の1.5万人を武装させて、3万人に及ぶ共産主義者と戦わせていた。

しかし爆撃は難民を生むだけであり、共産主義勢力はどんどん拡大した。

アメリカ国内では、1970年の中間選挙で民主党が勝利し、(共和党の)ニクソン政権の支持率は急降下していた。

71年半ばには、ニューヨーク・タイムズが「ペンタゴン・ペーパー」と呼ばれる7000ページに上る秘密文書を入手し、公開を始めた。

この文書は、1940年代~69年にかけてアメリカがベトナムに深入りしていく政策決定の過程を暴露していた。

ペンタゴン・ペーパーには、ニクソン時代の文書は含まれていなかったが、反戦運動はさらに盛り上がった。

ニクソンとキッシンジャーは、新たな秘密漏洩によって「自分たちが秘かにカンボジアとラオスを爆撃しているのが、バレるのではないか」と恐れた。

ニューヨーク・タイムズ誌が、1969年5月の爆撃をすっぱ抜くと、キッシンジャーは自分の部下の電話に盗聴器を設置した。

さらにCIAの職員を使って、盗聴グループを組織した。

1972年にこの盗聴グループは、民主党本部の電話を盗聴するために、ウォーターゲート・ホテルに侵入した。

そして見つかり、逮捕された。

ニクソンはこの事件(ウォーターゲート事件)により、74年に辞任に追い込まれた。

ニクソンは反戦運動を鎮めるために、「徴兵制度は、73年に廃止する」と宣言した。

これにより、大学のキャンパスはようやく平静を取り戻し始めた。

(2014年5月12日に作成)


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