(『エコノミック・ヒットマン』ジョン・パーキンス著から抜粋)
1973年10月6日に、エジプトとシリアはイスラエルを急襲した。
これが第4次中東戦争であり、世界中に大きな影響をもたらした。
イスラエル寄りの態度をとるアメリカに対し、湾岸諸国は「原油価格を70%値上げする」と宣言した。
10月17日に湾岸諸国は、原油生産の削減とアメリカへの輸出制限を決めた。
10月19日にニクソン大統領は、イスラエルに対する22億ドルもの軍事援助を議会に求めた。
その翌日、湾岸諸国はアメリカに対する全面的な石油禁輸を発表した。
この輸出禁止は、74年3月18日に解除されたが、影響力は大きかった。
70年1月1日には1バレル1.39ドルだったサウジアラビアの原油は、74年1月1日には8.32ドルまで急騰したのだ。
この経験は、アメリカの支配グループの方針に大きな変化をもたらした。
彼らは、オイルダラーを自国に還流させる手段を必死で探すようになり、サウジが富をきちんと管理する体制に欠けている事に注目した。
アメリカ政府はサウジ政府と交渉を始め、「アメリカにオイルダラーを還流し石油の輸出禁止をしない代わりに、アメリカは技術・武器・軍事教育を提供する」と提案した。
この結果、『アメリカ・アラブ統合経済委員会(JECOR)』という組織が創設された。
JECORの運営はアメリカ財務省にゆだねられたが、この委員会はきわめて独立性の高い存在だった。
結局のところ、25年以上にもわたって、議会の監視をうけずにカネを使った。
財務省は、早い段階からメイン社をアドバイザーとして参画させた。
メイン社の重役である私は呼び出され、「この仕事は非常に重要であり、情報は絶対に口外しないように」と言われた。
私の仕事は、巨額のカネがインフラ投資された場合のサウジの発展を予測し、投資計画を作成することだった。
要するに、アメリカの金融機関がアメリカ企業に建設工事を発注するという条件の下で、巨額のカネをサウジ経済に注ぎ込むことを正当化するように求められたのだ。
作業は独力でやるように指示され、小さな部屋に隔離された。
「これはアメリカの安全保障に関わっており、メイン社に大きな利益をもたらす可能性がある案件だ」と、釘をさされた。
もちろん私は、『今回の仕事は、サウジのオイルダラーをアメリカに還流させる方法を見つけることだ』と理解していた。
その過程で、サウジ経済はアメリカ経済とつながりを深め、米欧化されてそこに組み込まれていく事になるのだ。
私は、サウジが石油輸出用のインフラを整備して、現代的な都市をつくり上げるように、開発計画を作成した。
見積もりを詰めて厳密な数字にしたり、結論を導いたりする必要はなかった。
私の仕事は、可能性の展望を描き、コストをざっと見積もることだった。
私は常に、本当の目的を念頭に置いていた。
つまり、アメリカ企業への支払いを最大限に増やして、サウジがアメリカに依存するように仕向けることだ。
(これが、エコノミック・ヒットマンの役目です)
開発プロジェクトは、ひんぱんなアップグレードや保守管理を必要とし、それは高度な技術を必要とするので設計・建設をした企業でなければ行えない。
これにより、メイン社、べクテル社、ブラウン&ルート社、ハリバートン社などは、数十年にわたって利益を上げられる。
さらに、サウジ経済が現代化すれば、イスラエルなどの周辺国は脅威に感じるし、国内の保守的なイスラム教徒は激怒する。
緊張が高まれば、サウジの軍事面でもアメリカ企業は契約を見込める。
軍事基地などの建設プロジェクトを受注できる。
サウジ開発のプロジェクトを、私たちは「SAMA」と呼んでいた。
SAMAとは、「サウジアラビアン・マネーロンダリング・アフェアー」の略称だ。
SAMAは、国際金融機関から借金する必要のない国で、儲ける手段を生み出したのだ。
この計画では、「石油価格をある範囲にとどめること」を、アメリカはサウジに求めた。
つまり、『イランやイラクが輸出停止をすると脅しても、サウジが供給量の不足分を埋める』という事だ。
これをすれば、長期的には産油国は輸出停止に二の足を踏むようになる。
この見返りとして、アメリカはサウード王家が支配者として君臨し続けるのを保証する。
OPEC諸国は、サウード王家が条件つきでアメリカに降伏してしまったのを知り、呆然としたに違いない。
アメリカとサウジの取引とは、『サウジがオイルマネーを使ってアメリカ国債を買い、代わりにアメリカ国務省はその国債の利息を使ってサウジを先進国に変貌させる』だ。
サウジのオイルマネーの利子がアメリカ企業に支払われて、サウジを現代的な工業国家にする。
サウジは、「資本を提供しているから、開発プロジェクトをコントロールできる」と考えていた。
だが現実には、アメリカ企業がサウジの将来像や経済構造を決定することになった。
この談合がいっそう美味しいのは、米議会の承認が必要ない事だった。
1つだけ問題があった。
サウジの要人を説得しなければならなかったのだ。
1975年に私は、要人の1人への対応を命じられた。
その人物は「プリンス・W」といい、厳格なワッハーブ派で「ヨーロッパの商業主義に倣うのは見たくない」と主張していた。
さらに、「これは十字軍と同じ目的を持っていて、アラブ世界をキリスト教に改宗させるつもりだ」とも主張した。
プリンス・Wには、弱点が1つあった。ブロンド美人だ。
私は、サリーというブロンド美人を斡旋した。
アメリカとサウジの取引は、サウジを文字通り変貌させた。
トーマス・リップマンは2003年にこう書いている。
「アメリカ人たちは、遊牧民のテントや農民の泥小屋が建つ荒れた土地を、スターバックスがありビルが立ち並ぶ街へと変えた。
今日のサウジでは、高速道路・ショッピングモール・ホテル・ファストフード店・アミューズメントパークなど、何でも揃っている。」
両国の関係は、特別なものだ。
ウガンダの独裁者だったイディ・アミンは、国民を10~30万人も虐殺し、1979年にサウジに亡命した。
アメリカ政府は反対したものの、表立った問題にはしなかった。
1980年代のアフガン戦争では、サウード王家がオサマ・ビンラディンに資金提供するのをアメリカは望み、アメリカは35億ドルをイスラム・ゲリラに提供した。
9.11事件の時も、アメリカ国内での飛行が全面禁止される中、ビンラディンの一族を含む富裕なサウジ人は私有機ですみやかに出国できた。
(2015.7.3.)