(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
ジェラルド・フォードは、長く共和党の下院の指導者をしてきた。
ニクソン大統領が辞任すると、副大統領のフォードが後を継いだが、彼はニクソン路線の継承を明らかにし、就任の1ヵ月後にニクソンを特赦した。
この特赦により、支持率は低下した。
1974年5月の中間選挙では、共和党は大敗し、1936年以来の最大の敗北であった。
(ウォーターゲート事件やベトナム戦争の泥沼化などによる)政治不信を反映して、投票率は36%と低迷した。
フォード大統領は(法案の)拒否権を連発して、66回に達したが、それはクリーヴランド大統領に次ぐ多さだった。
失業率は7%を超え、GNPも一時マイナスとなった。
彼は、米大統領として初めて来日した。
ソ連の指導者ブレジネフとの会談では、SALTⅡで合意した。
1975年に入ると、フォード大統領は南ベトナムへの軍事援助を求めたが、議会は承認しなかった。
75年12月には、新太平洋ドクトリンを発表した。
内容は、日本とのパートナーシップをアジア戦略の基軸とすること、対中国の正常化、などである。
(『大統領の英語』松尾弌之著から抜粋)
1974年8月9日に、辞任したリチャード・ニクソンの後を継いで、ジェラルド・フォードは大統領に昇格した。
フォードは、国民の投票とはいっさい関係なく大統領となった、アメリカ史上初の人物である。
本来の副大統領は、大統領と一緒に選挙で選ばれる。
だがニクソンと一緒に選ばれたスピロ・アグニューは、ウォーターゲート事件が脚光をあびる前に、別の金銭スキャンダルで辞任していた。
そして憲法の規定により、議会が副大統領を選ぶことになり、ジェラルド・フォードが選ばれたのである。
大統領の辞任といい、国民の手の届かない所で大統領が決められた事といい、1974年のアメリカは極めて異常な政治情勢だった。
フォードの就任時は、「ニクソンとの間に密約があり、大統領にしてもらった代わりに直ちにニクソンを恩赦で許すのではないか」と囁かれた。
(※実際にフォードは恩赦を行った)
ジェラルド・フォードは、庶民的かつ不器用な人物で、リンドン・ジョンソン元大統領は「ヘルメット無しでアメフトをやりすぎた男(頭がバカになった男)」と評してはばからなかった。
だがウォーターゲート事件にうんざりしていた国民は、そんなフォードに好意を寄せた。
(2016年3月24日に作成)