(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
1980年代のエリア51(※これはネヴァダ州のネリス試験訓練場の中にある)では、空軍がアメリカ初のステルス爆撃機となる「Fー117ナイトホーク」のテストを行っていた。
ロッキード社の物理学者エドワード・ロヴィックは、ステルス機の開発に関わってきた人だが、こう語る。
「ロッキード社のデニス・オーバーホルザーとディック・シェラーという技術者が、コンピュータの計算を使ってステルス機の設計ができる事に気付いたんだ。
1974年当時、コンピュータは誕生したばかりで車みたいに大きかった。メモリは60キロバイトにも満たなかった。」
数学者のビル・シュローダーが、「エコー」というロッキード社用のコンピュータ・プログラムを作成した。
ロヴィックは言う。
「私たちは平板を設計し、それを鏡のように作用させて、レーダー波が飛行機から散乱するようにした。」
1974年にFー117の図面起こしが始められ、エリア51でテストが始まった。
ソーントン・T・D・バーンズは言う。
「ロッキード社から渡された原寸大の模型は、海底二万マイル(SF映画)に出てくる潜水艦にそっくりだった。
我々は機体をあらゆる角度からレーダーで見て、その映り具合を調べた。
機体の改良を重ねていくと、ついにレーダーに映らなくなった。」
1976年にロッキード社は、アメリカ政府との契約を勝ち取った。
ただちに2機のFー117が製造されたが、その責任者がボブ・マーフィーだった。
マーフィーは、かつてUー2偵察機の整備士としてケリー・ジョンソンに仕えた男だ。
Fー117は爆撃機のため、ステルス性だけでなく、爆弾投下の精度テストも必要だった。
そのためエリア51だけでは場所が足りず、空軍はエネルギー省に相談した。
エネルギー省は、ネヴァダ州・ネリス試験訓練場の内にあり、エリア51の北西113kmにある区画を提供した。
そこはデス・ヴァレーの中にあり、1957年からサンディア国立研究所の爆撃練習場(トノパー実験場)とミサイル発射施設として使われていた。
この区画は新たに「エリア52」と名付けられた。
トノパーは、かつては鉱山地だったが、1957年からはサンディア国立研究所のトノパー支部と呼ばれてきた。
ここでは1957年から64年にかけて、680発の爆弾が投下され、555基のロケットが発射された。
63年にはプルトニウムの散布実験(ローラー・コースター作戦)が行われ、サンディアが製造した核爆弾3つを炸裂させて、発生したプルトニウム雲の風下に動物300頭を配置し、生物学データを集めた。
1979年10月に、エリア52のトノパーでFー117のサポート施設の建設が始まった。
Fー117の存在が世に知られるのは、1988年11月で、ぼやけた画像が公開されると国民はその矢尻形の未来的な外観に圧倒された。
(2021年8月15日に作成)