ドル・ショック(ドル本位制の崩壊)とスミソニアン合意

(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)

1944年の「ブレトンウッズ合意」以降、世界経済は全面的にアメリカの通貨ドルに依存してきた。

活力あふれるアメリカ経済と、150~240億ドルに上るアメリカのゴールド保有量が、それを支えていた。

しかしニクソン政権が発足した時までに、アメリカはドルを過剰に消費してきていた。

400億ドルが海外にばら撒かれ、国内には100億ドルのゴールドが残っているだけとなっていた。

そのため諸外国は、「自国の保有するドルが、ゴールドと同等の価値を持っているのか?」と疑問を持ち始めた。

1970年に、この疑問がパニック状態を引き起こした。

この年にアメリカは、1894年以来で、石油や自動車などの輸入額が輸出額を上回った。

これは、アメリカ史でも重要な瞬間であった。

人々はドルを、ゴールドや有価証券に交換し始めた。

ニクソン大統領には、この問題を解決するのに、いくつかの選択の余地があった。

まず、「アメリカの軍事的なコミットメントを縮小して、ドルの流出を防止すること」が可能だった。

しかしニクソン大統領と補佐役のヘンリー・キッシンジャーは、この道を採らなかった。

むしろ、アメリカの影響力を世界で拡大させる決意を固めた。

次に、「アメリカの対外投資を制限すること」が可能だった。

1958~68年の間に、アメリカの製造業の企業は、ヨーロッパやアジアに進出した。

この期間のアメリカ国内への投資拡大率は72%だったのに、海外への投資は471%も伸びていた。

例えばフォード社は、自動車生産の40%を海外生産に切り換えた。

アメリカから進出していった企業たちは、ほとんどマネーをアメリカに還流させなかった。

しかしニクソンは、これに干渉しなかった。
もし干渉すれば、多国籍企業はアメリカ国外を中心に活動するのが判っていたからだ。

ニクソン大統領は、第3の選択肢を採った。

つまり、『アメリカ経済への支援を同盟国にさせること』にしたのである。

1971年半ばにニクソンは演説で、

「現在の世界は、アメリカ・日本・ソ連・中国・ヨーロッパという5つの経済大国で構成されている。

アメリカは、他と力を合わせて経済活動をしていかなければならない。さもないと、古代ローマのように衰退する事になる。」

と警告した。

歴史学者のアラン・ヘンリクソンは、ニクソンのこの発言を、『アメリカが他国に優越する存在から、対等なものへと変化することを認めたもの』と述べた。

1971年8月にニクソンは、『賃金・物価・利子を90日間据え置くこと』で、ドルの崩壊を防止しようとしたが、上手くいかなかった。

ニクソンは、同盟諸国により多くの負担を求める交渉を、ジョン・コナリー財務長官に委ねた。

コナリーは、まずこう宣言した。

「われわれを利用してきた外国の奴らから、力づくで絞り取る必要がある」

こうして、アメリカへの輸入品には一律10%の課徴金が課されるようになった。

各国は大きな衝撃を受けた。

またニクソンは、非公式に日本政府を批判した。

というのも、日本が約束を反故にしたからである。

日米は、『沖縄の日本返還と引き換えに、日本が繊維製品の対米輸出を自粛する約束』を交わしていた。

(これは初めて知りました。あまり公になっていないですね。
当時は佐藤栄作・政権でしたが、約束した事を日本国民に伝えなかったため、密約になってしまいました。)

日本政府は、その取り決めを遵守しなかった。

1971年の初頭に提出された秘密報告には、日本への怒りが書かれ、「日本を潜在的な敵と見なすべき」と結論されている。

また西ヨーロッパ諸国は、(アメリカが要請しているのに)アメリカ製品に対する関税を引き下げなかった。

1971年の後半に、ワシントンのスミソニアン研究所において、通貨レートの合意が成立した。

西側諸国は「ドルの切り下げ」(つまりアメリカ製品の国際競争力を上げること)を承認した。

ニクソンは、「世界史上で最も重要な通貨に関する合意だ」と言った。

このスミソニアン合意は、ニクソンが1972年の大統領選挙で再選するのに大いに役立った。

さらには、ニクソンが訪中・訪ソをした際に、留保されたアメリカの強大な経済力を背景にして交渉ができた。

(『世界歴史体系 アメリカ史2』から抜粋)

ドルとゴールドの兌換の停止は、IMFのドル本位体制の崩壊を意味していた。

世界経済は、流動的で不安定になるのは不可避となった。

1971年12月に、10ヵ国の蔵相が集まり、『スミソニアン協定』が結ばれた。

ドルは、1オンス35ドル→38ドルに切り下げられた。

しかし、アメリカの国際収支の赤字は改善しなかった。

この間に、日米の通商関係が政治問題化した。

対日貿易が赤字に転じたのは1965年だったが、72年には41.2億ドルにまで拡大した。

中でも日本からの鉄鋼と繊維の輸入が、激増していた。

鉄鋼は69年に日本が自主規制し、72年には「日米の繊維協定」も結ばれた。

(2014年5月12日に作成)


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