中国を訪問して関係を改善し、世界に衝撃を与える

(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)

1971年7月に、リチャード・ニクソン大統領は『中国の訪問』を発表して、世界を驚愕させた。

世論調査では、アメリカ人の56%は「中国が世界で最も危険な国である」と見なしていた。

しかも「中国を封じ込める」という名目で、ベトナムですでに5万人の米兵が死んでいた。

しかし、ニクソンの訪中に対する批判はほとんど起こらなかった。

当時のベトナムでは、北ベトナムを支援しているソ連の影響力が増していた。

中国は、ソ連の影響力を封じ込めようとしていた。

一方ニクソンは、「中国の封じ込めにベトナムを利用するよりも、ベトナムの封じ込めに中国を利用する方が効果的である」との結論に達していた。

当時の中国は、国内の政治的な大混乱(文化大革命)も収拾していた。

毛沢東が文化大革命の開始を命じたのは、1966年である。

この革命では、10代の横暴な紅衛兵が保守派とおぼしき人々を殺害し、知識人や政府高官を農村に追放した。

1969年に毛がブレーキをかけるまで、中国社会は大混乱に陥った。

1969年には、中ソの国境で100万人に及ぶ両国の兵力が軍事衝突をし、多数の死者が出た。

こうした情勢下で、毛沢東と周恩来は政治の方向を大きく転換させたのである。

中国の指導部は、ニクソンに友好的なシグナルを送り、ニクソンもこれに応えて中ソ紛争について「ソ連は、中国への攻撃を控えなさい」と発言した。

周恩来・首相は、中国の卓球チームと試合をするために、アメリカの卓球チームの招請を申し出た。

ニクソンも、中国への禁輸措置を緩和し、中国への軍事偵察飛行も中止した。

1971年に、インドとパキスタンが国境紛争を再発させると、アメリカは親中国派のパキスタンを支持した。

パキスタンでは、軍部がクーデターを成功させたり、東パキスタンへの暴虐な弾圧があったが、ニクソンは支持を堅持した。

こうした支援の見返りとして、パキスタンはヘンリー・キッシンジャーの北京極秘訪問を支援した。

1972年2月に、ニクソン大統領は訪中をした。

彼は、訪中をした最初のアメリカ大統領となった。

ニクソンと周恩来が2月27日に発表した「上海での最終コミュニケ」は、米中関係の大転換点となった。

米中は、次の事で合意した。

① アジア・太平洋地域で覇権を打ち立てようとする存在には、反対する

② 科学・文化・経済の交流を拡大する

③ アメリカは、台湾のアメリカ軍の規模をしだいに減らしていく

1971~73年の間に、米中貿易は年間500億ドル→900億ドルへと増大した。

こうしてニクソンは、中国の対外的な譲歩を独占しようとする日本の試みも、封じ込めることに成功した。

ニクソンは訪中をする事で、ソ連の譲歩を引き出そうと考えていた。

そしてそれは、首尾よく達せられる事になる。

(2014.5.12~13.)

(『世界歴史体系 アメリカ史2』から抜粋)

ニクソン大統領は1972年2月に、アメリカ大統領としては初めて中国を訪れ、「国交の正常化を望む」と表明した。

73年2月の「米中の共同声明」では、貿易や文化の交流拡大の合意をした。

元々、アメリカ軍のベトナムへの介入・侵攻は、中国を封じ込める策の1つだった。

しかしベトナム戦争の泥沼化により、根本的な再検討を迫られていた。

ニクソンは当選後すぐに、対中国の取引・貿易を増やしていた。

ニクソンの政治は、行動の裏付けに特色があった。

中国のほうも、1970年にカナダと国交を樹立し、国連でも招請(国連加盟)の声が高まっていた。

そして中国は、(長く同盟国だった)ソ連との関係が悪化していた。

米中の国交樹立では、「台湾問題」が障害となっていた。

ニクソンは、中国と台湾の両方に国連の議席を認める「二重代表制」を打ち出したが、中国は反対した。

1971年10月の国連総会で、アメリカの反対にも関わらず台湾は追放され、中国の加入が可決された。

アメリカは敗北したわけだが、これは米中の接近をいっそう促した。

(2014年5月15日に作成)


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