(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
リチャード・ニクソン大統領は、当時はソ連と敵対していた中国に、アメリカ大統領として初めて訪問をした。
この訪中により、1972年の米ソの首脳会談では、有利な立場となった。
当時のソ連は、経済政策の失敗により停滞していた。
ソ連は、アメリカの援助を求めていた。
一方アメリカも、ソ連の鉱物資源を求めていた。
ソ連の指導者であるブレジネフは、軍縮をすることで経済に金を回そうと考えていた。
米ソ両国は、地球上のすべての人に放射性TNT火薬15トン分をぶつけられるほどの、膨大な核戦力(核兵器)を保有していた。
米ソの両政府は、社会福祉関連の支出額の2.5倍もの金を、軍事支出に振り向けていた。
ニクソン大統領が、ソ連との首脳会談を決めたのは、「ソ連との貿易(武器貿易も含む)を通じて、アメリカ経済を立て直そう」と考えたからだった。
さらにニクソンは、大統領選挙に向けて有権者にアピールできる、政治ショーを作ろうとしていた。
また、ベトナムから早く撤退するためでもあった。
1969~72年にかけて、西ドイツの首相であるウィリー・ブラントは、東ドイツの共産主義政権を承認し、1945年にソ連によって引かれた東ヨーロッパの国境線も承認した。
ブラント首相は、「攻撃的な反共政策よりも、デタント(緊張の緩和)の方が、共産主義の内部に影響を与えられる」と信じていた。
ニクソン大統領と、その補佐役のヘンリー・キッシンジャーは、ブラントがソ連に接近するのを苦々しく思っていた。
しかし、この動きに乗ることにした。
アイゼンハワーやケネディの時代とは異なり、ニクソンの時代にはソ連に対して軍事的な優位を保つのは不可能になっていた。
ニクソンとキッシンジャーは、「共産主義を抑制するためには、新たな手段を見つけねばならない」と考えた。
彼らにとってデタントとは、『今までよりも安上がりな手段で、ソ連の支配力を封じ込めること』であった。
1972年の当時は、ソ連が北ベトナムを独力で支援していたが、北ベトナム政府をコントロール出来ていなかった。
ニクソンが訪ソの準備を始めた中、72年3月30日に北ベトナムは、南ベトナムにいるアメリカ軍に大規模な攻撃を始めた。
ニクソンは、ソ連製の戦車を使った北ベトナム軍の攻撃を、挑戦と見なした。
そして「ラインバッカー作戦」と呼ばれる、大爆撃作戦で対抗した。
この作戦では、500~3000ポンドものレーザー光線による誘導型の爆弾が使用され、橋や鉄道などが正確に破壊された。
1972年5月8日には、ソ連艦艇が停泊していたハイフォン港に、アメリカ軍は機雷を撒いた。
ソ連は何の反応も示さず、ニクソンの訪ソを優先した。
1972年5月22日に、ニクソンは訪ソをした。
当然の事ながら、ニクソンら一行が泊まったホテルには盗聴器が仕掛けられた。
しかし両国のリーダーは親しく接し、4つの合意が成立した。
(合意したことについては、別のページに書きます)
この後、米ソの緊張は緩和した。
しかしアメリカは、新型爆弾、新しいトライデント型の原子力潜水艦、より高性能のミサイル、などに予算を投じた。
ソ連でも、ブレジネフが軍の近代化を進め、反対する者に厳しい弾圧を加えた。
(2014年5月13日に作成)