(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
リチャード・ニクソン大統領の訪ソでは、4つの合意が成立した。
第3の合意は、『米ソ関係の基本的な原則の協定』である。
これは条約ではなかったが、米ソは平和的な共存を誓い合い、外国での特権を放棄する事を誓い合った。
アメリカはこの協定を、ブレジネフ・ドクトリンの終焉と見なした。
第4の合意は、『米ソの経済交流』である。
アメリカは、「ソ連が節度ある態度をとるなら、報償を与える」政策を採った。
この報償政策は、「リンケージ政策」として知られるようになる。
1971~73年の間に、米ソ間の貿易は3倍の6.5億ドルまで増えた。
ソ連は、アメリカの小麦やトウモロコシを安価で買い占めていった。
この結果、アメリカの穀物業者は大儲けしたが、パン価格が上昇してアメリカ国民は怒った。
ニクソンは1972年5月に訪ソし、上に書いた合意をしたが、その後、同年10月に調印された『米ソの通商協定』では、ソ連に最恵国待遇が与えられた。
するとアメリカ上院が、これに抵抗した。
74年に超タカ派の民主党議員ヘンリー・ジャクソンを中心に、ジャクソンーバニク修正条項が提出された。
ここでは、「ソ連が国内のユダヤ人(ユダヤ教徒)の出国を許可する場合に限り、アメリカは最恵国待遇を与える」とされた。
すでにニクソンとブレジネフは(米ソの両政府は話し合って)、ソ連からのユダヤ人の出国者数を増大させていた。
1968年に400人だったものが、73年には3.5万人になっていた。
(出国したユダヤ教徒たちは、ほとんどがイスラエルかアメリカに移住した)
しかし73年に、ブレジネフは出国税を課して出国を困難にした。
ジャクソンーバニク修正条項は、これに対抗したのである。
さらに民主党のアドレイ・スティブンソン二世は、ソ連への銀行貸し付けを制限するための修正条項を、『米ソの通商協定』に加えた。
これにソ連は激怒し、75年1月に協定そのものの廃棄を通告した。
(2014年5月13~14日に作成)