グリーンスパンFRB議長の回想、1990年代~2000年代

(『日経新聞 私の履歴書 アラン・グリーンスパン』2008年連載から抜粋)

ジョージ・ブッシュが大統領になると、彼は1991年の一般教書で、「金利は引き下げられるべきだ」と述べた。

ブレイディ財務長官も、「FRB議長の君だけが利下げに反対している」と、私に手紙で伝えきた。

ブレイディは、「FRB議長に再任するから、利下げを確約してくれ」とも言ってきた。
だがもちろん約束はできなかった。

当時にメディアを騒がせていたのは、日本脅威論だった。

三菱地所がロックフェラーセンターを買収するなどして、このままでは日本に何もかも買われるとの論評があちこちで出た。

日本は土地バブルが異常になっていた。

日本への警戒感から激しい貿易摩擦も起きたが、私は自由貿易主義なので、日本からの輸入を問題視するのは正しくないと思っていた。

1993年にFRBは、厳しい批判にさらされた。

民主党のゴンザレス下院議員が、FRBの秘密主義を取り上げたのだ。

彼は、FOMC(連邦公開市場委員会)の審議を公開するよう求めてきた。

当時、FOMCの内容は6週間後に短い議事録が発表されるだけだった。
私は公開に反対だった。

ゴンザレス議員はさらに、FOMCの電話会議の録音テープを提出せよ、と求めてきた。

議会への提出は拒否して、銀行の法律家にテープを聞いてもらうことで妥協した。

結局、FOMCの詳細内容を5年後に公開することになった。

FRBは1994年に、新しい試みをした。

インフレの兆候が見える前に、予防的に利上げを始めたのだ。

1994年2月から1年にわたり、計3%の利上げをした。

景気は軟着陸に成功し、私は誇りに思った。

1994年の年末には、メキシコ危機が起きた。

私は、ルービン財務長官、サマーズ財務次官と共に、400億ドルの債務保証案を決めた。
だが米議会が猛反発した。

クリントン政権は異例の措置にふみ切り、緊急時用の為替安定基金を活用した。

これは、アメリカ国民の8割近くが反対する決定だった。

翌日物のドルの調達さえできなかったメキシコだが、9年後には20年物のペソ債を9%以下で借りられるようになった。

1995年12月のFOMCで、私は1つの仮説を提示した。

情報技術の活用で、低い物価上昇率、低い金利、完全雇用が、長く共存できる時期に入ったという説だ。

反応はほとんどなかった。

1996年9月のFOMCでは、多くの委員が利上げを求めた。賃金が上昇していたからだ。

だが私は、情報技術革命で成長力が高まった結果であり、賃金が上がっても問題ないと見た。
だから利上げは見送った。

1996年10月にダウ平均は、ついに6000ドルの大台に乗った。
わずか1年半で4000ドルを超えて、6000ドルまで来たのだ。

私はバブルになったと感じ、96年12月5日に「根拠なき熱狂」 と発言した。

97年春に利上げをしたが、数週間で強気相場に戻ってしまった。

「ダムが決壊しようとしている」と、日本銀行の幹部が連絡してきたのは、1997年11月だった。

アジア経済は危機になっていた。
タイ、マレーシア、インドネシアの通貨と株価が暴落し、次は韓国だと、日銀は警告してきた。

IMFは総額550億ドルという、過去最大の支援策をまとめた。

1998年には、ロシアでも経済危機が起きた。
これは債務不履行になり、 ウォール街への打撃はアジア危機を超えた。

私とルービン財務長官は、先進国が一緒に政策金利を引き下げるべきと訴えた。

9月のG7では、緊急声明を出して、インフレ抑制よりも低金利へ転換することを示した。

FRBは3回にわたって利下げした。

1999年になると、米国は楽観ムードとなり、株価は急上昇した。

2001年9月11日に、同時多発テロがあった。
それで9月17日と10月2日に、FRBは政策金利を合わせて1%引き下げた。

企業や消費者の支出が一気に鈍ったからだ。

2004年6月末に、FRBは4年ぶりに利上げをした。
ところが長期金利は上昇しないどころか、低下した。

金利を上げて過熱感の出ていた住宅投資ブームを緩和しようと考えたのだが、そうならなかった。

FRBが利上げを続けても、長期金利はほとんど上がらなかった。
この現象を私は「謎」と呼んだ。

長期金利の低下は世界的な現象で、世界の国々で住宅投資ブームが起きていた。

(※住宅バブルが膨らみ、それが2008年に弾けて経済危機リーマン・ショックになった事を、自分のせいではないと逃げているように見える。

世界中が悪いのだ、私は悪くない、とグリーンスパンは言いたいのだろう。)

宮沢喜一が蔵相をしていた時、私はG7でよく彼と話をした。

宮沢との会話でよくおぼえているのは、(彼が首相になってから発覚した)銀行の不良債権のことだ。
1980年代の末に米国でも、同様の問題があった。

米国では整理した金融機関の担保不動産を、整理信託公社が安値で売り、早期に解決した。

このことを伝えると、宮沢は「それは日本のやり方ではない」と言った。
「金融機関の破綻や、多くの失業者を生むからだ」と。

その後、2000年代に入り小泉純一郎・首相が主導した郵政民営化は、画期的な出来事だ。

私は高く評価する。

(※小泉政権の行った一連の政策は、痛みの伴う改革とか、弱肉強食の世界と呼ばれた。
グリーンスパンは大金持ちの資本家と親しいので、こういう方向を支持するのだろう。)

現在、使い道のなくなった技能を持つ人の報酬は減り、必要な技能を持った数少ない人はひっぱりだこで報酬は大きく増えている。

この結果、大きな所得格差が生まれている。

(※この理屈は、資本家とその取り巻きがよく使う自己正当化である。
大金を稼ぐ一部の者を、必要な技能を持った者だからだと正当化する。

実際には、資本主義が歯止めなく進むと、資本を持つ者つまり金持ちはどんどん肥え太り、一般労働者は搾取されるようになる。

グリーンスパンの言う必要な技能と必要でない技能は、資本家が自分勝手に決めたものにすぎない。)

初等・中等教育で、時代に合わせた技能を付けることで、 所得を高めていける。

富裕層に重い税を課して所得を再配分しようとすれば、全体の富は減る。
低所得者も恩恵を受けない。

(※これも資本家がよく使う説明だ。

だがいくら技能を身に付けても、労働者たちの人間としての尊厳が認められ、労働者の権利や待遇が守られなければ、所得は上がらない。

所得を再配分しても全体の富は減らないし、低所得者は恩恵を受ける。
そんなのは当たり前だが、資本家たちはそれを認めない。)

私は2006年1月にFRB議長を辞めた後は、コンサルタント会社を立ち上げ、ドイツ銀行などと顧客契約を結んだ。

(2024年6月30日~7月1日に作成)


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