プロジェクト・オライオン(原子力エンジンの宇宙船の開発)

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

ネヴァダ州にあるエリア25は、ネヴァダ核実験場の内にあり、「ジャッカス・フラッツ」と呼ばれる。

そこは面積577平方kmの平坦な砂漠だが、三方を山に囲まれていて人目につかない区画だ。

1962年にケネディ大統領は、「NERVA(ロケット飛翔体応用の原子力エンジン)計画」を視察するため、エリア25を訪れた。

この時は、当時の原子力委員会の委員長だったグレン・シーボーグも同行している。

そもそもエリア25は、原子力エンジンを使った宇宙船を打ち上げるのに最適な地として選ばれた場所だ。

当時は、そのような宇宙船を使えば、124日で地球と火星を往復できるとされていた。

完成した宇宙船は16階建ての建物に相当し、150人が乗員するものになるはずで、この計画は『プロジェクト・オライオン』と呼ばれた。

このプロジェクトの発案者は、かつてロスアラモス国立研究所で働いたセオドア・テイラーだった。

セオドア・テイラーは、1950年代前半の数年間、国防総省から請け負って核爆弾の設計をした。

その後、サンディエゴの「ゼネラル・アトミックス社」(ゼネラル・エレクトリックの原子力部門)に入社し、原子力推進式の宇宙船の設計を始めた。

1958年にゼネラル・アトミックス社は、アイゼンハワー大統領が立ち上げたばかりの『ARPA(高等研究計画局』に、この宇宙船の話を持ちかけた。

ARPAの局長ロイ・ジョンソンは、テイラーの構想に惚れ込み、「プロジェクト・オライオン」と名付けて100万ドルの前金を渡した。

さらにプロジェクト用の実験施設としてエリア25が与えられた。

これは極秘計画だったので、他のロケット開発のようにケープ・カナヴェラル空軍基地から打ち上げる事はできなかった。

セオドア・テイラーの巨大宇宙船は、核爆発で生じる柱に押し上げられて上昇する事になっていた。

だがARPAと空軍は計画を練り直し、宇宙戦艦にオライオンを改変しようとした。

宇宙からターゲットに核ミサイルを発射するという構想だ。

1960年代の初頭に、SAC(戦略航空軍団)のトーマス・パワー将軍は、「オライオンを建造した者こそが地球を支配する」と宣言している。

しかし1963年に大気圏内での核実験が禁止されると、プロジェクト・オライオンは無期限に延期された。

それでも空軍とNASAは、原子炉を搭載した宇宙船の計画(NERVA計画)は続けた。

NERVAを研究する施設は、「ジャッカス・フラッツ原子力ロケット実験施設」と名付けられ、さらに計画を管理する事務所「SNPO(宇宙原子力推進事務所」も設置された。

ソーントン・T・D・バーンズは、NERVA計画に加わり、エリア25で働いた人だが、彼の仕事場はエリア25の地下にあった。

計画に携わる者は例外なく、山肌の小さな通用口から職場に向かった。

地下トンネルの全長は350mだと、原子力委員会の記録には書いてある。

バーンズは回想する。

「トンネルを抜けると最後に数枚のドアが待ちうけており、それらのドアを抜けるとデスクで埋め尽くされた部屋が並ぶ場所に出る。

ゼロ地点(爆心地)のほうへ進むと、突き当たりに大きな部屋があって、そこの壁にはハイテク機器がずらりと並んでいた。

その部屋にはいつも技師がいて、電子回路を直したり調整したりしていた。」

原子力エンジンのテストは地下で行われるが、超強力なので、エンジン自体が宇宙に打ち上がってしまわないよう、試験台に固定し、上下逆さにしてテストしなければならない。

原子炉はコンクリートと鉛で補強された保管庫にしまわれているが、試験台へと5kmの道のりを運ぶのは遠隔操作の機関車だ。

バーンズは語る。

「原子炉を運ぶ機関車が行き来する間、原子炉のメルトダウンを防いでいたのは液体水素のタンクだった。

原子炉はそのタンクに浸っていた。

機関車は時速8km以上のスピードは出せなかった。
火花1つで何もかも木っ端微塵になるからね。」

摂氏160度になると、液体水素は地球上で最も燃えやすくなる。

バーンズの話は続く。

「コンクリートの頑丈な導水管に囲まれたセメントの高台に、36mのアルミ塔が立っている様子を想像してみてほしい。

周囲には球形の巨大な魔法瓶みたいなものがいくつかあって、中には1万ℓ近い液体水素が入っている。

こう言えば、打ち上げテストの光景がどんなものか分かってもらえると思う。

原子炉は機関車で高い塔の開口部まで運ばれ、遠隔操作で試験台に載せられる。

私たちは地下にいて、特殊な鉛ガラスの窓越しに原子炉を観察し、エンジンのデータを測定していた。

厚さ1.8mの土は、放射線を防ぐにはもってこいだった。

エンジンが最大出力になると、温度は摂氏2027度に達する。

だから液体水素で冷やし続けるが、エンジン稼働中は熱せられた水素が空気と接して引火し、谷全体が地獄の様だった。」

1990年代の後半に、ディザレット・ニュース紙のリー・デイヴィッドソンが、上記の原子炉エンジンの試験について、詳細を初めて記事にした。

彼は別の事実も突き止めている。

1960年代にネヴァダ州カリエンテで、水道水からヨウ素131が検出され、住民が訴え出た。

この時、原子力委員会は「いかなる核実験も行っていない、中国の核実験で飛散したものと思われる」と回答し、責任を中国に転嫁した。

だが実際には、カリエンテの水質検査の3日前まで、エリア25でNERVAの試験が行われていたのである。

NERVAの試験は、いずれ核の事故が起きると予想できた。

ロスアラモス国立研究所に長年勤めたジェームズ・デュワーは、こう記している。

「ロスアラモス国立研究所は、原子炉を爆発させていた。

起こりうる事故の中でも最悪の事故のデータがあれば、事故シナリオを自信をもって予測できるからだ。」

1965年1月12日に、原子力ロケットエンジン(暗号名キウィ)を使った、オーバーヒートの試験が行われた。

その様子は複数の高速カメラで撮影されたが、「摂氏4000度に達するとエンジンが爆発し、核燃料が勢いよく空に飛び散った」とデュワーは書いている。

致死性の放射性物質が67kg、空に飛び散って、44kgは400m以上離れた地点に落下した。

放射能の雲が立ち上がり、上空800mの地点で安定したが、EG&Gの航空機がそこを飛んでサンプルを採取した。

放射能雲はしだいに流され始め、「雲はロサンゼルス上空を通過し、海へ出た」とデュワーは書いている。

この原子炉の爆発テストは、ソ連が知り「部分的核実験の禁止条約に違反している」と声明を出した。

もちろん違反していた。

キウィのオーバーヒート試験から5ヵ月後の1965年6月に、別の原子力エンジン(暗号名ポイボス)の最大出力テストが行われた。

ジェームズ・デュワーは、こう記している。

「ポイボスの試験中に、液体水素が無くなり、一瞬にしてオーバーヒートした。原子炉から大量の放射性燃料が大気中に撒き散らされた。」

事故の原因は、液体水素のタンクの1つのメーターが壊れていて、メーターは残っているのを示しているのに、実際は空っぽだった事だった。

この事故でエリア25は重度に汚染され、防護服を着た作業員ですら6週間も立ち入ることが出来なかった。

地下に居た作業員たちがどうやって脱出したかは、何の記録もない。

その後、1973年1月5日になって、リチャード・ニクソン大統領はNERVA計画を正式に終了させた。

ソーントン・T・D・バーンズは語る。

「私たちはロケットを進化させ、火星に送り込む技術を得た。

でも環境的な問題があった。
打ち上げる時に原子力エンジンが爆発する可能性があるから、原子力推進式ロケットを使うことが出来なかった。」

(※つまり開発は失敗したという事である)

エリア25で働き癌を発病した作業員たちの被曝を調査した、国立労働安全衛生研究所らは、2008年の報告書にこう記している。

「2つの原子炉の破壊と放射性物質の飛散により、一帯は広域にわたってウラン、ニオブ、コバルト、セシウムで汚染された」

NERVA計画の原子炉の爆発は、エネルギー省は文書の公開を拒否し続けている。

ジェームズ・デュワーは記している。

「SNPO(宇宙原子力推進事務所)の元職員の大半が、1972年にオフィスが閉鎖された後に記録も破棄されたと思っている。

ハロルド・フィンガー、ミルトン・クライン、デイヴィッド・ガブリエルといった歴代の所長のファイルが残っていたら、NERVAの歴史を知るうえで計り知れない価値があったろう。」

2002年1月にNNSA(国家核安全保障庁)は、エリア25の調査を行った。

その報告書にはこうある。

「コバルト、ストロンチウム、イットリウム、ニオブ、セシウム、バリウム、ユウロピウム、ウラン、プルトニウム、アメリシウムといった放射性物質が検出され、土壌深くまで浸透していると思われる」

1979年にスリーマイル島で原発事故が起きた時、事故対応マニュアルが無いので皆が茫然自失になった。

原子力委員会は、すでにエリア25で同様の事故を経験していたのだが、その情報をどこにも公開していなかった。

スリーマイル原発事故と時を同じくして、アメリカでは『チャイナ・シンドローム』という映画が公開された。

これは、原子炉の事故でメルトダウンの危機が迫る中、政府がその事実を隠蔽しようとし、ジェーン・フォンダが演じる記者がそれを暴こうとする内容である。

スリーマイル原発事故と『チャイナ・シンドローム』により、一般大衆は集団ヒステリーとなった。

だがこのヒステリーは、米政府の高官たちが数十年も恐れ続けてきた社会不安にはならず(米政府は社会不安が起こるとして様々な情報を隠してきた)、逆に公益に大いに貢献し、核政策に民主的な抑制をもたらした。

(2021年6月20&24日に作成)


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