(『そうだったのか!現代史2』池上彰著から抜粋)
1961年にアメリカ国内で、核兵器を積んだ爆撃機Bー52が墜落した。
そして、核爆弾2個を落とす事故が起きた。
核爆弾を回収したところ、安全装置が6つ付いていたが、5つは外れてしまっていた。
1965年12月には、空母タイコンデロガが横須賀基地に向かう途中に、沖縄近海で、水爆1個を積んだ戦闘機を海中に没させる事故を起こした。
海中に沈んだ水爆は、今も回収されていない。
66年1月にはスペインで、Bー52と空中給油機が空中衝突をし、4個の水爆が落ちた。
2個は人家のある地域に落ちて、放射能もれを起こした。
(2014年1月21日に作成)
(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
1966年1月17日の朝、スペインのパロマレス上空で、水爆4発を搭載したSAC(戦略航空軍団、アメリカ空軍の部隊)の爆撃機が、空中給油機と衝突した。
SACは、1950年代の後半に『クロームドーム作戦』を始めていたが、これはMAD(相互の確実な破壊)の示威行動として、水爆を搭載した戦闘機を地球上で定期巡回させるものだ。
MADは、ソ連が先制攻撃してきたらSACの爆撃機が直ちにモスクワに行って、核兵器で報復するもので、それを「相互の確実な破壊」と称していた。
(※こういうのを知ると、アメリカ政府と軍が頭がおかしいと分かるでしょう?)
パロマレス上空の衝突事故で、ぶつかった2機は爆発し、給油機は乗務員の全員が一瞬にして灰燼に帰した。
爆撃機のパイロットらは、辛うじてパラシュートで脱出した。
4発の水爆にもパラシュートが装着されていたが、そのうち2つは開かなかった。
開かなかった2つは、地面に衝突すると、起爆剤が爆発して核のコアが露出し、プルトニウムが農地2600平方kmに飛散した。
パラシュートが開いたうちの1つは河川敷に着陸し、もう1つは海に落ちて沈んだ。
リンドン・ジョンソン大統領は、ワシントンでこの事故の報告署を受け取ったが、そこには「第16原子力災害班を派遣」とだけ書かれていた。
これだけ見ると、この班の他に、最低でも15の班が存在するように思えるが、実際には班は無くて、寄せ集めの班がパロマレスに投入されたに過ぎなかった。
原子力災害の対応班は、1975年にマーロン・ゲイツ准将がネヴァダ核実験場の責任者となり「核緊急捜査隊」を組織するまでは、存在しなかった。
ネヴァダ核実験場では、様々な核実験が行われていた。
もし除染作業を行っていれば、その知識は有効に活用できただろう。
だが核実験を取り仕切る「原子力委員会」がした事は、核実験に使った区画に有刺鉄線を張り巡らせて、次の実験に移ることだった。
パロマレスには800名が投入されたが、除染作業は行き当たりばったりとなった。
3ヵ月かけて除染し、1400トンの汚染された土と植物が処理のためにサウスカロライナ州サヴァンナ川の施設に運ばれた。
それでも防衛原子力局は、「ある程度の量のプルトニウムは、塵となって運ばれ回収できない」と認めた。
一方、国防総省は水爆事故の事実を44日間も認めず、海底に沈んでいる水爆を回収してからようやく事故があったのを認めた。
核爆弾の事故は、この後も続いた。
2年後の1968年1月21日にも、SACの爆撃機が墜落事故を起こした。
グリーンランド上空を飛んでいたB-52Gが火災で墜落し、ノーススター湾の凍てついた水面に叩きつけられた。
その衝撃で、水爆4発のうち少なくとも3発が起爆し、プルトニウム、ウラン、トリチウムが撒き散らされた。
現場は炎上し、氷が溶けて水爆の1つは水中に沈んでしまった。
沈んだ水爆は、回収されずに終わっている。
これは2008年12月にイギリスBBCの調査で明らかになった。
この事故では500人が動員されたが、最低気温がー21度の環境で、除染作業は難航した。
8ヵ月かけて1万500トンの氷、雪、飛行機の残骸が、サウスカロライナ州の処理施設に空輸された。
だがSACの機密文書を見ると、除染とは名ばかりだったようだ。
除染には放射線探知機が不可欠だが、EG&G社は「中性子探知スーツケース」というブリーフケース型を開発した。
ローレンス放射線研究所も、車両に搭載させて核実験場を走り回り、地下核実験で出た放射能が地面にできた亀裂から漏れ出すのを測定するタイプを開発した。
やがて、紫外線や赤外線などで遠隔地から放射線量を測定する、「遠隔探知」という技術も開発された。
EG&Gはネヴァダ核実験場に、「EG&G遠隔探知研究所」をつくった。
これは、9.11自作自演テロの以降に、ネリス空軍基地にある姉妹研究所がその名を譲り受け、あらゆる種類の大量破壊兵器の遠隔探知の研究を併せて行うようになった。
(2020年7月29日に作成)