(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
1960年2月に、黒人学生が白人専用エリアでの「座り込み運動」を始めた。
白人専用モーテルでのスリープ・イン、図書館でのリード・インなど、運動はどんどんと広がった。
参加者は5万人におよび、検挙者は3600人になった。
この運動は、最高裁のブラウン判決によって「人種隔離は違憲」とされたのに、いっこうに改善しないアメリカ社会への苛立ちの表明であった。
運動の背景には、アフリカでの独立国の誕生や、キューバ革命の影響もあった。
(この時期には、アフリカでは植民地支配を脱して独立する国が相次いでいました)
1960年4月には『学生の非暴力の調整委員会(SNCC)』が結成され、強力なエネルギー源となった。
(この団体は、黒人学生を中心にしていた)
白人学生も、60年6月にSDSを結成しました。
彼らは差別よりも、核戦争への恐怖やキューバ革命への関心が契機だった。
1950年代の沈黙の世代とは、学生たちは明らかに変貌した。
(50年代の若者は、保守的で大人しく政治活動をしないために、沈黙の世代と呼ばれていた)
1961年5月に、13人の黒人と白人が、バスでニューオリンズを目指した。
(これは差別撤廃の運動の一環でした)
彼らは深南部で白人に襲われ、それはTV中継されて衝撃を与えた。
ケネディ大統領は、南部の民主党の離反を恐れて、これを静観した。
奴隷解放宣言から100年目の1963年には、「これを機に、完全な自由を達成しよう」との声が高まった。
黒人のキング牧師は、「全米で最悪の差別都市と呼ばれていたアラバマ州のバーミンガム」で差別撤廃の闘争をし、世界の注目を集めていた。
ここでは、あらゆる差別が温存され、連邦政府の介入は拒否されていた。
63年の春に、キングはあえてバーミンガムでのデモ行進を計画した。
参加者は、大量逮捕となった。
全米に報道され、暴行や逮捕のシーンは同情を集めた。
こうした運動や報道をうけて、ケネディ大統領は63年6月11日に『公民権法案』の提出を表明した。
キングらは、立法化を確実にするために、8月28日にワシントンでの大行進を計画した。
首都ワシントンでのデモの大行進には、20万人以上が集まった。
白人が2割を占め、100人近い連邦議員も参加した。
キングは伝説的な名演説をし、TVで見ていた人々にも感動が伝わった。
キングの語った夢は、独立宣言や憲法の原則にしたがっており、非暴力の手段であったために、白人にも共感できた。
一方、黒人の間では「公民権法で差別が解消されるのか」という疑念も出始めていた。
マルコムXは、「ワシントン行進の指導者は、ケネディ政権の批判を自粛した」と非難した。
マルコムXは、北部都市の黒人の怒りを最も鋭く表現していた人物で、学識と雄弁さで注目され、黒人の分離による自立を目指す『ブラック・ナショナリズム』の指導者となっていた。
彼は1964年4月にメッカ(イスラム教の聖地)を訪問して以降は、分離主義に修正を加えたが、65年2月に39歳で暗殺されてしまった。
彼の思想は、後の『ブラック・パワー運動』に大きな影響を与えた。
公民権法案の審議では、反対する南部議員の孤立が深まっていった。
反対派の危機感はつのっていった。
こうした状況下で、1963年11月22日に、ケネディ大統領はダラスで暗殺されてしまった。
この暗殺事件は、ケネディを神話化し、アメリカの対立と混乱を際立たせた。
ジョンソン副大統領は、ケネディの後を継いで大統領になり、「公民権法の成立こそが、追悼になる」と訴えた。
(そしてジョンソン政権は、公民権法を成立させた)
(2014.4.3.作成)