(『アメリカの時代』『世界歴史体系アメリカ史2』から抜粋)
リンドン・ジョンソンは、テキサス州の山間部の出身で、人に恩を売るのが上手かった。
ジョンソンは、稀にみる政治的な本能のおかげで、ケネディ政権で副大統領になるまで、「アメリカ上院の史上最強の院内総務」であった。
ジョンソンはかつて、「朝鮮戦争で中国を粉砕しなかった」とトルーマン大統領を非難し、「ソ連の軍拡を許した」とアイゼンハワー大統領を非難していた。
そのため大統領になると、直後に「東南アジアが中国の側につくのは、許さない」と宣言した。
(これは、ベトナムやラオスへの介入・派兵を続行する、という意味です)
しかし彼は、忍耐力を示す事もあった。
キューバのカストロ政権が、グアンタナモ湾のアメリカ軍基地への水の供給を断った時には、報復を叫ぶ者が多い中で、基地に水の浄化装置を送ってすませた。
パナマで1964年に、アメリカに対する暴動が起きた時も、パナマを分断している1903年の条約を改正する交渉を始めた。
そして、14年もの交渉の後に、新条約が結ばれる事になる。
1964年の大統領選挙の戦いが始まると、共和党候補のバリー・ゴールドウォーターは「ベトナムへの大規模な介入」を主張した。
そんな中、8月2日に北ベトナムの魚雷艇が、トンキン湾でアメリカの軍艦を攻撃した。
ジョンソン大統領は、すぐに反応した。
彼は、アメリカ空軍に爆撃を命じ、議会に対しては「アメリカ軍にあらゆる攻撃を命じられる権利を、私に与えてくれ」と要請した。
この要請は、下院では416対0で可決され、上院では88対2で可決した。
上院で反対したのは、ウェイン・モースとアーネスト・グルーニングである。
それから4年後(1968年)に、「トンキン湾の攻撃は、アメリカ側の扇動によるものだった」可能性が浮上た。
そして、あったとされた2度目の攻撃は、全くのデタラメ(でっち上げ)であった。
トンキン湾事件は、アメリカ軍がジョンソン政権の承認の下で、計画的に北ベトナムを挑発したものと発覚した。
(アメリカは、戦争をするために事件をでっち上げることを、よく行います)
ジョンソンは大統領選において、「アメリカから遠く離れた所に、アメリカの青年を送る事は決してしない。ベトナム戦争の拡大はしない。」と約束した。
こう言う事で、ベトナム問題を争点から外すことに成功した。
しかしその一方で、彼は北ベトナムへの空爆を命じていたのである。
大統領選では、有権者のほとんどは無知のために、国外政策に関心を持っていなかった。
ある世論調査では、アメリカ国民の25%は、中国が共産国であることを知らず、アメリカ兵がベトナムで戦っている事を知らなかった。
ジョンソンは、若者・老人・貧困者・少数民族に援助を与える計画(偉大な社会の計画)を発表し、大統領選挙で大勝利を収めた。
彼は、副大統領には民主党リベラル派のヒューバート・ハンフリーを起用した。
(2014.4.7.作成)