(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
1960年の大統領選挙は、共和党のリチャード・ニクソンと、民主党のジョン・F・ケネディとの戦いだった。
ケネディは、戦後初の選挙で下院議員となった。
1954年には闘病生活となり、その間に「勇気ある人々」を執筆して、ピューリッツァー賞をとった。
ケネディは、56年の大統領選において、副大統領候補の選挙で善戦し、名を上げていた。
彼は43歳で若造視されており、カトリックでもあったため、ハンデがあった。
しかし、雄弁と資金力、ブレーンに支えられて、予備選に勝利した。
ケネディは、9歳年上のリンドン・ジョンソンを副大統領候補にした。
これは、南部の民主党員をつなぎとめるためだった。
彼は、「ニュー・フロンティア」をキャッチフレーズに演説した。
一方リチャード・ニクソンは、共和党政権下だった8年間(アイゼンハワー政権時代)での安定成長と、副大統領をした実績をアピールした。
史上初の4回に及ぶ両候補のTV討論で、ケネディは若さと雄弁さを売り込んだ。
「この8年でアメリカの威信が低下した」と共和党を批判し、アメリカの再建を訴えた。
さらにキング牧師が逮捕されるや、釈放を要求し、沈黙を守ったニクソンとの違いを際立たせた。
ケネディは辛勝した。
アメリカ史上初のカトリック大統領で、かつ初の20世紀生まれの大統領であり、大きな変革を印象づけた。
(2014年1月21日に作成)
(アメリカの時代 ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
1979年の世論調査では、33%のアメリカ人が、歴代大統領の中で「今も大統領であってほしい人物」としてケネディをあげた。
2位のフランクリン・ローズヴェルトの2倍の支持を得た。
ケネディは、1946年には下院に、52年には上院に選出されたが、民主党内で権力を求めるタイプではなかった。
彼は、経済ではリベラル、公民権や外交では保守だった。
彼は、「ヤルタ会談で譲歩をしすぎた」とローズヴェルトを非難し、「中国を共産党に渡した」とトルーマンを非難した。
そして、常に国防費の増額を支持していた。
1956~60年にかけて、彼は父親(ジョゼフ・ケネディ)の富を使って、民主党の枠外に自分の組織を持つようになった。
ケネディがニクソンに勝利したのは、「テレビ討論での勝利」「アイゼンハワー(共和党)時代の経済の後退」「副大統領候補にしたリンドン・ジョンソンが集めた南部の票」のおかげであった。
ケネディの選挙テーマは『ニュー・フロンティア』で、「アメリカ国民よ、国が諸君に何をなすかではなく、諸君が国のために何をなすかを問いたまえ」と主張した。
(2014.3.23.作成)