(『アメリカの時代』『世界歴史体系アメリカ史2』から抜粋)
1968年の大統領選挙では、ジョンソン政権の副大統領である民主党のヒューバート・ハンフリーと、共和党のリチャード・ニクソンが争った。
この選挙では、民主党のロバート・ケネディが有力な候補だったが、6月6日に暗殺されてしまった。
共和党では、ニクソンが政界にカムバックして指名を得た。
ニクソンは、「ベトナム戦争の終結」と「国内の治安の回復」を提唱した。
1968年11月1日に(民主党の)ジョンソン大統領が、北爆(北ベトナムの空爆)の全面停止を表明したため、ハンフリーは追い上げた。
(※ジョンソン大統領の進めてきたベトナム戦争が泥沼化したため、アメリカでは反戦運動が盛り上がり、民主党政権への支持率が大きく下がっていた。
北爆の停止は、ベトナムからの米軍撤退につながる行動である。)
選挙では、ニクソンがわずか0.7%の得票差で勝った。
ハンフリーの敗戦には、ジョンソン政権の進めたベトナム戦争が大きく影響していた。
世論調査では、アメリカ国民が求めていた最大の願いは、「犯罪と暴力の恐れを感じることなく、町の通りを歩きたい。秩序を取り戻してほしい」であった。
ニクソンは、ベトナム戦争と国内の街路での戦争を終わらせる事を訴えて、当選した。
若き日のリチャード・ニクソンは、第2次世界大戦中の海軍兵役の時代に、ポーカーで大金を稼いだ。
後に政界入りする際に、このカネは大いに役立った。
ニクソンは、1950年に上院選で勝利すると、53~60年までアイゼンハワー政権で副大統領を務めた。
彼は、1960年の大統領選と62年のカリフォルニア州知事選で敗北すると、一度は政界から引退した。
彼は親友がおらず、根っからの孤独癖を持っていた。
1960年代の後半になると、彼は「ベトナム戦争はアメリカの支配力を崩壊させた。歴史はすでに転換点にある。」と認識していた。
(2014.4.25.作成)
(『大統領の英語』松尾弌之著から抜粋)
1968年の大統領選挙において、ニクソンはわずか50万票の差で勝利した。
彼は、1950年代の赤狩りの風潮の中で、反共の闘士として政界で出世した。
そしてアイゼンハワー政権の副大統領となった。
ニクソンの演説には言い訳がましさはあり、特に名高いのは「チェッカーズ・スピーチ」である。
これは副大統領をしていた1955年のもので、上院議員時代に不正な金銭操作をしていたのが発覚し、共和党の首脳部がニクソンの更迭を検討している最中でのものだった。
彼は釈明の演説で、「私だって妻や2人の娘を養っていかなくてはならず、チェッカーという犬だっているのです!」と言った。
そして涙を流したのである。
これには、同情する意見と、「犬の名前まで口にして同情を買おうとするとは」と呆れる意見が巻き起こった。
ニクソンはクビにならずに済んだが、今日でも潔くない小心者のスピーチの代名詞となっている。
ニクソン大統領のスタイルで象徴的なのは、「ホワイトハウス護衛兵の制服事件」である。
ホワイトハウスの護衛は、伝統的に海兵隊が行う。
選りすぐりの海兵隊員が、正装で入口に立っている。
海兵隊の正装は、さほど手の込んだものではなく、シンプルなものだ。
これが気に食わなかったニクソンは、新しい制服をデザインさせたのである。
そして、出来た服がイギリスのバッキンガム宮殿の衛兵とそっくりなものだったため、世論の袋叩きにあった。
「王様の真似を始めた」とか「帝王意識の現われだ」と、メディアは批判した。
私は当時、ホワイトハウスのディナー・パーティーで通訳をする機会があった。
ニクソン大統領には品格がなく、小悪人の印象で、背中を丸めながらチョロチョロ歩いていた。
ニクソンの辞任後、護衛兵の制服は元に戻された。
(2016.3.24.作成)