(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
ニクソン政権がまず成すことは、ベトナム戦争を解決することだった。
ニクソンがホワイトハウス入りをした日に、彼は最高機密により『ベトナム戦争においてアメリカの勝利はあり得ないこと』を知った。
ペンタゴンの研究では、「最も上手く事態が推移しても、アメリカが南ベトナム全土を掌握するには、8~13年はかかる」との結論だった。
当時のアメリカは、ベトナムに54.3万人を派兵し、負担額は年間3000億ドルになっていた。
そして1968年だけで、1.5万人ものアメリカ兵が死亡していた。
ニクソンは、ベトナムからの漸進的な撤退を決めた。
しかし1973年に撤退を完了するまでに、さらに2.6万人のアメリカ兵と、100万人以上の東南アジア人が亡くなった。
ニクソンは、北ベトナムの指導者との交渉を始めた。
しかし同時に、北ベトナムに大規模な爆撃をして、脅しをかけた。
ニクソンは1969年の中頃に発表した『ニクソン・ドクトリン』の中で、「自由世界のあらゆる防衛を引き受けることは出来ないし、その意志もない」と明らかにした。
ケネディ大統領が「いかなる敵とも戦い、いかなる味方にも援助を行う」と言ったのとは対照的である。
(※ケネディの無知かつ無謀な政策により、アメリカは衰退した)
ニクソン大統領は、膨大な額になっていた軍事費を削減するため、「2方面で大規模戦争をし、1方面で小規模戦争をできる」状態から、「1方面で大規模戦争をし、1方面で小規模戦争をできる」ところまで軍事費を減らすように命じた。
アメリカ軍は1972年の後半には、ベトナムでは3000人まで減った。
6万人の在韓米軍は3分の1を減らし、日本からは1.2万人、タイからは1.6万人を減らした。
しかしアメリカ軍は、1969~73年初頭まで、毎分に平均1トンもの爆弾を落とした。
南ベトナムでは、フェニックス計画の下で、民間人を少なくとも2.1万人も殺害した。
ニクソンは北ベトナムに対して、核兵器の使用さえも考慮に入れていた。
1969年10月にワシントンで大規模な反戦デモが行われた際は、ニクソンは怖気づき、軽マシンガンで武装した300人をホワイトハウス内に配備し、身辺警護を命じた。
(2014.5.11.作成)
(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
ニクソン政権のベトナムでの方針は、「名誉ある撤退をすること」で、1969年5月に和平案を示した。
7月には、アメリカ軍の負担を軽減して南ベトナムの自主防衛力を強める『ベトナム化計画』を表明した。
この計画は、「直接介入を極力抑える方向への転換」を明確に示した点で注目に値した。
(2014.5.15.作成)