(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
フランシス・ゲイリー・パワーズは、1960年5月1日の朝、不安を感じていた。
飛行はすでに2度延期されていた。
彼は、パキスタンのペシャワールにあるCIAの秘密施設にいた。
パキスタンの5月は最も暑い月で、その日もうだるような暑さだった。
ソ連領を偵察機で横断する試みを、CIAはまだ実施した事がなかった。
パワーズはU-2偵察機に乗り、ペシャワールからソ連領を通って、ノルウェーにあるCIAの秘密基地まで飛ぶことになっていた。
パワーズは主に、2つの地点で写真を撮ることになっていた。
1つは「チュラタム宇宙基地」で、ソ連のミサイル発射基地だ。
スプートニクもそこから打ち上げられていた。
もう1つはプレセツクにある施設で、そこは北極圏に近いが最新のミサイル基地があると見られていた。そこはアラスカに近い。
パワーズの予定距離は6100kmという記録的な長さで、そのうち4700kmはソ連領内。9時間も敵の領空で過ごすことになる。
80cm刻みの写真を撮りながら、ソ連を横断するのだ。
パワーズが待機していると、現場指揮官のシェルトン大佐が近づいてきて、大きな銀貨を差し出した。
その硬貨には毒針が隠されていて、CIAが設計した自殺道具だ。
クラーレという毒が塗られており、一刺しで数秒後には死ぬ。
パワーズは今まではどの任務でもこれを断ってきたが、今回は受け取ってポケットにすべり込ませた。
アイゼンハワー大統領の最終許可が下り、ゲイリー・パワーズのU-2は午前6時20分に離陸した。
しばらくすると、ソ連の首相ニキータ・フルシチョフに電話がかかった。
相手は国防相のマリノフスキー元帥で、「高空飛行の偵察機がアフガニスタンの国境を越え、ソ連の中央部に向かっている」と伝えた。
フルシチョフは激怒した。
その日はソ連の祝日で、パレードのために街は飾られていた。
アメリカは4年前の7月4日(アメリカの建国記念日)にも、U-2の最初の上空侵犯を仕掛けていた。
フルシチョフは「どんな手を使っても飛行機を撃ち落とせ」と命じた。
その頃パワーズは、自分が今どこに居るのか見極めるのが困難になっていた。
U-2は高高度を飛ぶが、2.3万メートルの上空では、上に広がる空は漆黒になる。下は雲に覆われていた。
コンパスと六分儀だけを頼りに飛行するしかなかった。
敵の領空なので、無線は使えない。
雲の切れ間が見つかり、チュラタム宇宙基地の近くだと分かった。
そして少なくとも1機のミグ(ソ連の戦闘機)が追跡しているのも分かった。
ミグはU-2のはるか下で、脅威にはならなかった。
U-2は高高度に守られて飛行を続け、スヴェルドロフスクに向かった。
スヴェルドロフスクは、かつてはエカテリンブルクと呼ばれていた場所で、戦車やロケットを造る施設であり、生物化学兵器の開発拠点でもあった。
パワーズはカメラのスイッチを入れたが、そこは「クイシトゥイム40」と呼ばれる秘密施設で、核物質を生成する重要な場所だった。
この時点では、アメリカはまだそれを知らなかった。
地上では、クイシトゥイム40を警護する地対空ミサイルがU-2を追跡していた。
そしてマッハ3のミサイルが発射された。
パワーズは後に書いている。
「激しい動きに機体が揺れた。
コックピットのあちこちに身体を叩きつけられた。
両方の翼が取れたと思った。
機首が上向きになり、機体がくるくると回り始めた。」
U-2は墜落しようとしており、脱出する必要があった。
パワーズは脱出し、パラシュートが開いてゆっくり降下した。
トルコにあるNSAの基地では、クイシトゥイム40のミサイル・システムの操作員がU-2を撃墜しようとしているやり取りを、通信傍受していた。
そして撃墜された事を、NSAはすぐさまホワイトハウスに緊急伝達した。
パワーズが地面に着くと、車がすぐに来て、男たち50人くらいに囲まれた。
パワーズはトラックの助手席に乗せられ、トラックは走り出したが男たちは友好的に見えた。
ホワイトハウスは、U-2撃墜でパイロットは死亡したと思い込んだ。
そしてスパイ行為を否定し、「ゲイリー・パワーズは気象データを集めていただけだ」と主張した。
しかし5月5日にフルシチョフは、クレムリン宮殿で演説し、アメリカの偵察機を撃墜したと語った。
さらに7日には2回目の暴露演説をして、「実はパイロットは生きていて、私たちの許にいる」と語った。
フルシチョフは謝罪を要求したが、アイゼンハワーは頭を下げようとしなかった。
アイゼンハワーは仕方なく、スパイ活動を承認した事を認める決断をした。
ゲイリー・パワーズはモスクワに運ばれ、KGB本部を兼ねるルビヤンカ刑務所の独房に入れられた。
KGBは、エリア51で行われているU-2の訓練について知りたがった。
1985年にCIAによって機密解除された、1960年8月のパワーズの裁判記録からは、ソ連がエリア51の場所がネヴァダ核実験場の中にあるのを把握していた事が分かる。
ソ連は、エリア51でCIAとロッキード社が偵察機を訓練している事を掴んでいた。
3日間の裁判を経て、パワーズには禁固10年の判決が下った。
そしてパリで予定されていた米ソの首脳会談は中止になった。
(2019年10月19日に作成)