(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
CIAは、ソ連のレーダーの性能を調べるため、『プロジェクト・パラディアム』と呼ばれる研究プログラムを発足させた。
キューバ上空まで飛んで行って帰ってくるのが主な内容だった。
このプロジェクトを任されていたエンジニアのジーン・ポティートは回想する。
「ソ連のレーダー受信器の感度と、操作者の腕前を知る必要があった。
ソ連が(1960年に)ミサイルとレーダーをキューバに持ちこんだ事で、我々は(ソ連の)SA-2ミサイル・レーダーの感度を測る絶好の機会を与えられたわけだ。」
このプロジェクトのメンバーの1人が、T・D・バーンズだった。
バーンズは17歳のときに年齢を偽って州兵になり、2年後に韓国に派遣された。
そして諜報部員となった。
朝鮮戦争が停戦になると、カール・ジャーク少将からレーダーと電子工学を勉強するよう勧められ、フォート・ブリス(テキサス州にある陸軍訓練センター)に通うことになった。
フォート・ブリスでは、昼はナイキ・エイジャックスとナイキ・ハーキュリーズのミサイルの学校に通い、夜はテキサス・ウェスタン大学で授業を受けた。
彼が学んだナイキ・ミサイルは、10年前に元ナチスの科学者たちが開発したもので、元々はドイツのV-2ロケットだ。
フォート・ブリスでは、元ナチスの科学者が教壇に立つこともあった。
バーンズは23歳になるとCIAに引き抜かれ、『プロジェクト・パラディアム』の一部に参加することになった。
彼に与えられた仕事は、A-12偵察機やエリア51配備の電子妨害システムの開発だった。
フォート・ブリスは、1916年(第一次大戦中)に軍の飛行場として使われたのが始まりだ。
1960年代に入ると、「ビッグス」と呼ばれて、B-52のような重爆撃機の基地になった。
1960年からは、CIAの『プロジェクト・パラディアム』でも使われるようになり、バーンズはそこに配属された。
バーンズたちは戦闘機に乗り、キューバ領空ぎりぎりまで飛んで行く。
そうするとキューバにある基地は、ソ連製のレーダーで追跡してくる。
その電子情報(レーダーの情報)を収集するのが、『プロジェクト・パラディアム』の仕事だった。
バーンズは回想する。
「ソ連のミグが我々に向かって緊急発進してきてね。
当時は、電子妨害や対電子妨害の技術は、まだ新しかった。
我々はシュミレーターを使ってドップラー信号を送り、ミサイルに追尾させている事をミグのパイロットに知らせるんだ。
ソ連のパイロットが電子妨害を行うのを待って、こっちの対電子妨害がどうなるかを確認する。
ソ連側の信号が私たちのミサイルを妨害して照準を外せるなら、電子情報を調整しなければならない。」
バーンズとNSAが機内でしていた事は、周波数の記録だ。
得られた情報を分析したところ、ソ連のレーダーに何が見えて何が見えないかが突き止められた。
この電子情報の収集作戦は、当然ながらソ連を怒らせた。
ニキータ・フルシチョフは1961年1月にモスクワのキューバ大使館で、「憂慮すべき知らせが届いた。アメリカの好戦派がキューバ攻撃の準備をしているようだ。」とキューバ外交官に伝えた。
この月、アメリカはソ連がキューバに基地を造っているとして、キューバと断交した。
この頃、CIAのリチャード・ビッセルは「計画担当次長」に昇格した。
このポストは「秘密工作本部長」のことで、秘密活動の責任者だ。
前任者はフランク・ウィズナーで、ウィズナーは1951年8月から59年1月まで務めた。
ウィズナーは精神病にかかり、一時は精神病院に入っていたが、62年に引退した。
そして65年10月29日に猟銃で自殺した。
CIAはキューバ侵攻計画を進めていたが、コチーノス湾(ピッグス湾)が最適だと判断した。
島の南岸にあるこの小さな海岸線は、人が住んでおらず、近くに小さな飛行場があった。
ピッグス湾作戦(キューバ侵攻)が失敗に終わると、リチャード・ビッセルは責任を取らされ62年2月に辞職した。
キューバ侵攻が失敗した後、ケネディ大統領は、CIA監察総監のライマン・カークパトリック・ジュニアをエリア51に派遣し、報告書を書かせた。
ケネディは、エリア51で起きている事を知りたかったのだろう。
カークパトリックは、かつてアレン・ダレスの後継者と見られていたが、1952年にポリオにかかり下半身不随となって、監察総監に降格されていた。
エリア51の物資調達係を務めていたジム・フリードマンは言う。
「私は、エリア内のあらゆるグループにサービスを提供していた。
CIA、空軍、EG&G、レノルズ・エレクトリック・アンド・エンジニアリング・カンパニー、それに大富豪のハワード・ヒューズ。
ヒューズはエリア51にプライベートの格納庫を持っていた。
(※ハワード・ヒューズは、戦闘機メーカーのオーナーである)
CIAは、メーカーに競争させるのが好きだったんだ。
それでコダックとポラロイド、ロッキードとノース・アメリカン、EG&Gとヒューズがいたわけだ。
でも、どの会社とも入札なしの契約だった。」
ジム・フリードマンは1953年以降、EG&Gにも勤めていた。
彼は使い走りとして、エリア51の様々な場所に入れた。
「大抵の人が存在すら知らない場所にも行った。
その中には、見られてはならない人々が連れてこられる時に使う滑走路もあった。
ヴェトナム戦争中のことだが、夜中の3時頃に飛行機が着陸するのが見えた。
ヴェトナム人が降りてきたが、彼らは最新鋭のCIAの装置を使うための訓練をしに来たんだよ。
国に帰って敵陣の背後に設置する装置の訓練をね。」
元々フリードマンは、核爆弾の配線技術の訓練を受け、核実験にアルフレッド・オドネルと共に数十回も参加している。
その後スカウトされて、1960年12月から14年間、エリア51で働いた。
61年夏の終わりのある日、エリア51に車椅子の男がやって来た。
フリードマンは言う。
「事前に段差のある所をスロープに作り変えた。
私の上司でCIAのワーナー・ワイスが、車椅子の男を迎えたが、その様子から重要な人物だと分かった。」
その男こそ、カークパトリック・ジュニアだった。
カークパトリック・ジュニアは、エリア51を見て回った。
報告書にこう書いている。
「20かそれ以上の鉱区(ブラックメタル鉱山とグルーム鉱山)があり、いくつかには定期的に所有者が訪れている。
いくつかの鉱区には、使われていない建物および地下室がある。」
フリードマンは言う。
「エリア51にいるレーダー研究グループの責任者に、ウェイン・ペンドルトンという人がいた。
彼はキー・パーソンだったが、ある日突然にエリア51を離れた。
彼が行った先が、ワシントンにあるNRO(国家偵察局)のオフィスだと分かったのは、何十年も経ってからだ。」
NROは、国防総省の内に設置され、表向きは国防総省の宇宙システム局の体面をとり、その存在は1992年まで秘密にされた。
(2019年10月19~20日に作成)