(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
アメリカは無人機を、第二次大戦中から開発していた。
海軍が対ドイツ戦で遂行した無人機の作戦は、『アフロディーテ作戦』と呼ばれた。
この作戦に、ケネディ家のジョゼフ・ケネディ・ジュニア(ケネディ大統領の兄)が参加して戦死している。
『アフロディーテ作戦』は、ドイツ国内のミサイル基地を標的とし、ケネディの兄は改造されたB-24を操縦してイギリスを離陸した。
B-24には爆薬が積まれており、ケネディら乗員はそれを起爆してパラシュートで脱出する。
あとは、B-24を遠隔操縦して目標にぶつける。
ところがケネディらが脱出する前に、爆薬が発火してしまい、乗員全員が死亡した。
これを機に、海軍は無人機計画を中止した。
遠隔操縦の技術は、ニコラ・テスラが発明したものだ。
彼および友人で作家のマーク・トウェインは、この技術は軍事利用できると考え、各国政府に売り込んだ。
しかし当時は金を出す国はなかった。
その後、ナチス・ドイツは独自に遠隔操縦の技術を開発し、「ゴリアテ」と呼ばれるボブスレーほどの大きさの戦車を遠隔操作した。
ゴリアテは60kgの爆薬を搭載でき、敵軍の遮蔽壕や戦車めがけて走行され、主にソ連軍との戦いで使われた。
第二次大戦の後は、今度は米軍が原爆や水爆の実験で、放射性物質のデータ収集のために無人機を遠隔操縦して使った。
アメリカ政府は、1962年の後半にロッキード社と無人機の開発で契約した。
その後、63年から『タグボード』という暗号名で、無人機のプロジェクトをエリア51で進めた。
『タグボード』プロジェクトに携わった物理学者のエドワード・ロヴィックは言う。
「タグボードは、背面にマッハ3級の無人機を搭載したA-12の開発計画だった。
無人機には圧縮空気を動力とするラムジェット・エンジンが搭載されていて、超音速で飛行中の航空機からのみ発射が可能だった。」
A-12をベースにした母機は、マザーの頭文字から「M-21」と名付けられた。
無人機のほうはドーターの頭文字から「D-21」と命名された。
この計画では、時速3700kmで飛行中のM-21の背面からD-21を発射し、D-21は偵察写真などを撮ってそれをパラシュートで投下し、近くで待機している第二の航空機が回収することになっていた。
D-21は偵察を終えると、海に落ちて海底に沈む。
1966年7月30日にエリア51で、M-21の夜間でのD-21発射テストが行われた。
飛行してカリフォルニア沖に出て、D-21の発射ボタンを押したが、離脱で失敗し、母機の機体が真っ二つに裂けた。
母機に乗っていたビル・パークとレイ・トリックは、パラシュートで脱出したものの、レイはコードが絡まった状態で着水し溺死してしまった。
ロッキード社のケリー・ジョンソンは、この事故に大ショックを受け、「この計画全体を中止したい」と空軍とCIAに伝えた。
しかし空軍は、マッハ3の無人機開発を手放さなかった。
そしてB-52爆撃機から無人機を発射する新計画を作成した。
3年後の1969年、D-21はついに中国上空の偵察飛行を実行した。
しかしB-52から発射されたD-21は、どういうわけか針路を外れ、ソ連のシベリアにさまよい込むと墜落してしまった。
(2020年7月23~24日に作成)