(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
リンドン・ジョンソン大統領は、毎週火曜日に昼食会を開き、側近たちと外交政策を話し合った。
この昼食会は「ターゲット・チューズデー」と呼ばれたが、北ヴェトナムのどこを爆撃するか盛んに議論されたからである。
1967年に入ると、北ヴェトナムの地対空ミサイルによって、米軍機が頻繁に撃墜されるようになった。
国防総省は1年にわたって偵察飛行したが、地対空ミサイルの基地を特定できなかった。
この状況下で、開発の打ち切りが決まっていたA-12に任務が回ってきたのだ。
1967年5月16日のターゲット・チューズデーで、CIA長官のリチャード・ヘルムズは提案した。
「A-12なら北ヴェトナムのミサイル基地を高解像度で撮影できる」
マクナマラ国防長官は「A-12の空軍版であるSR-71がまもなく実用可能になる」と語ったが、ジョンソン大統領はCIAのA-12を沖縄の嘉手納空軍基地に配備する事を承認した。
CIAは、その『ブラック・シールド作戦』を行うため、A-12やパイロット、支援要員260名を嘉手納に送った。
嘉手納空軍基地は、沖縄本島にあるが、沖縄は日本の降伏後に米軍下に入り、1967年当時も米軍の支配下にあった。
この基地は島の10%を超える面積を占有しており、基地からの収入は全島民の所得の40%近くを占めた。
ブラックシールド作戦はここでスタートしたが、もちろん沖縄の人々には知らされなかった。
A-12が最初の任務を行ったのは、ジョンソン大統領の承認からわずか15日後だった。
CIAのパイロットのメル・ヴォヴォディッチの乗ったA-12は、北ヴェトナム上空を飛び写真を撮ったが、中国にも北ヴェトナムにも察知されなかった。
撮ったフィルムは、ニューヨーク州ロチェスターにあるイーストマン・コダック社の内に設けられた専用処理センターに送られた。
しかしこれだと、偵察写真の情報がヴェトナムの米軍司令官の手元に届くまで数日かかってしまった。
そこでCIAは、日本に写真センターを設置した。
その結果、24時間後には司令官の手元に届くようになった。
それでもなお、北ヴェトナム側はミサイル基地を移動させて爆撃を逃れ続けた。
嘉手納基地で働いていたロジャー・アンダーセン中佐は振り返る。
「嘉手納の滑走路の近くに停泊していたソ連のトロール船のせいだ。
我々が離陸するたびにメモを取っていたんだろう。」
ソ連が北ヴェトナム側に、米軍機の出撃の情報を伝えていたのだ。
その結果、ブラックシールド作戦の16回目の任務中、A-12は初めてミサイルに狙われた。
パイロットにとって運が良かったのは、ミサイルはA-12の高度に到達できなかった事だ。
ただし、A-12はステルス性が高いのが売りだったのに、敵に位置がしっかり把握されていた。
(※つまるところ、巨額の金を投じて開発したが、無駄だったという事である)
ハーヴィ・ストックマンは、U-2で初めてソ連を偵察したパイロットだが、ヴェトナム戦争にも従軍していた。
1967年6月11日、ハーヴィはF-4Cファントム・ジェット戦闘機に搭乗中、味方の飛行機とぶつかり、同乗していたロナルド・ウェッブと共にパラシュートで脱出した。
着地したところを北ヴェトナムの兵士に捕らえられ、そのあと5年と268日を2m四方の独房で過ごすことになった。
捕虜となったパイロットは、カメラの前に引きずり出されて、アメリカを糾弾するよう強いられる事もあった。
これは極めて効果的で、全米各地で反戦の気運が高まった。
それに対しホワイトハウスは、「我々はこの戦いに勝利しつつある」との虚偽の情報で反撃した。
(2020年7月27日に作成)