(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
ベトナム戦争中の1968年1月23日、北朝鮮の能島の250km沖に、アメリカ海軍の艦船「プエブロ号」が錨を降ろした。
この船は表向きは科学調査船としていたが、実際はNSA(アメリカ政府の盗聴組織)とアメリカ海軍が共同で行うSIGINT(通信情報の収集)をしていた。
プエブロ号に気付いた北朝鮮軍は、軍艦とミグ21を派遣した。
プエブロ号の艦長ロイド・ブッチャーは、逃げることを選択した。
北朝鮮軍は攻撃を始め、米海軍兵が1人死亡した。
プエブロ号の内部では、船員が暗号機を斧で壊し、書類を小さな焼却炉に押し込んでいた。
だが文書の9割は処分されずに残ってしまう。
攻撃開始から61分後、ついにブッチャー艦長と乗員82名が捕虜となった。
知らせを受けたリンドン・ジョンソン大統領は、激怒して北朝鮮に対する戦争の準備を命じた。
だが兵士も兵器もヴェトナム戦争に投入しているので、予備役を召集せざるを得なかった。
そうした中、リチャード・ヘルムズCIA長官はこう提案した。
「北朝鮮に近い沖縄の嘉手納基地に置いている、A-12偵察機を飛ばして、北朝鮮沿岸を撮影してプエブロ号の所在を突き止めてはどうか。
乗員を奪還するのが目的なら、所在が分からないといけない。
さらに偵察をすれば、北朝鮮が戦争の準備をしているかも確かめられる。」
1968年1月26日に、A-12が嘉手納基地を飛び立ち、プエブロ号が元山湾の港に繋留されているのを撮影した。
ジョンソン政権で大統領補佐官をつとめたウォルト・ロストウは、1994年にこう明かしている。
「A-12が元山港で発見したので、空爆計画を打ち切ることになった。
だいたい空爆なんてしても、大勢の人間が死ぬだけだ。」
この後、プエブロ号の乗員たちの身柄返還の交渉が開始された。
乗員たちは、拷問されスパイ活動を自白させられた後、11ヵ月後に釈放された。
(2020年7月27日に作成)