ソ連製ミグのリバース・エンジニアリング

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

「リバース・エンジニアリング(逆行分析)」とは、よそのメーカーや科学者がつくったものを分解し、設計や構成を解析することだ。

エリア51の伝説では、リバース・エンジニアリングが数多く登場する。

リバース・エンジニアリングがエリア51で重要な役割を果たしたのは、事実である。

その1例を挙げれば、ソ連製のミグ戦闘機である。

1966年8月のある朝、イラク北部の空軍基地で、イラク空軍大佐のムニル・レドファはミグ21に乗り込んだ。

彼はレーダーに捕捉されないように超低空飛行をしたりしながら、トルコを抜けてイスラエルに向かった。

ムニル・レドファのテルアヴィヴの銀行口座には、米ドルで100万ドルが振り込まれていた。

ミグはイスラエルに入り、ネゲヴ砂漠の秘密基地に着陸した。

こうしてイスラエルは、敵国のトップクラスの戦闘機を手に入れた。

ミグを入手する計画は、メイヤー・アミットがモサドの長官に就いた1963年にスタートした。

イスラエル空軍の上層部は、アミット新長官にミグの入手を求めた。

イスラエルの敵国であるシリア、エジプト、ヨルダン、イラクは、どこもミグを保有していた。

モサドはレドファ亡命の前にも、2度計画を立てたが、失敗に終わっていた。

レドファに目を付けたモサドは、まず美しい女スパイの色仕掛けでレドファをパリに誘い出した。

そして「ミグを引き渡せば100万ドルを支払う。家族の面倒も見る。」と持ちかけたのだ。

ミグを手に入れたイスラエルは、すぐにリバース・エンジニアリングに取り掛かった。

そして1967年6月にシリア・エジプト・ヨルダンを相手に、6日戦争(第3次・中東戦争)で勝利した。

レドファ亡命をワシントンに知らせたのは、CIAのテルアヴィヴ支局を統括するジェームズ・アングルトンだ。

彼は1960年代にはCIAとFBIのパイプ役を務めたが、イスラエルとの取引も担当していた。

ミグのアメリカへの受け渡しは、詳細が未だに機密扱いとなっている。

この交渉中、アングルトンはイスラエルに関する別の情報も手に入れ、それをリチャード・ヘルムズに伝えた。

ヘルムズはその情報をジョンソン大統領に伝えたが、6日戦争の開戦を予言する内容も含まれていたらしい。

イスラエルが開戦すると、大統領のヘルムズに対する評価はうなぎ上りとなった。

交渉が成立すると、ミグはネヴァダ州のエリア51に運ばれた。

当時エリア51の司令官だったヒュー・スレーターは述懐する。

「C-130輸送機で密輸され、受け渡しにはイスラエルの諜報員が立ち会った」

アメリカにとってミグ21は、ヴェトナムでパイロットの命を奪う憎き飛行機だった。

ソーントン・T・D・バーンズは、Xー15の開発に関わったが、その後にEG&G社からスカウトされて、エリア51で働くことになった。

バーンズは語る。

「エリア51に到着すると、EG&Gの建物に連れて行かれて、チームに紹介された。

上司に『君の名は?』と聞かれたから答えたら、『いや、ここでの君の名はサンダーだ』と言われてね。

ドアが開くと、そこにソ連のミグがあった。」

バーンズらは、ミグのリバース・エンジニアリングに取り掛かったが、EG&Gのチームは航空機のリバース・エンジニアリングに関して専門知識を持っていた。

チームの新入りだったバーンズは、その理由をあえて訊こうとしなかった。

分解して調べたところ、ミグには特別な装置は搭載されてなかった。

性能で勝るアメリカ軍の戦闘機が、どうしてミグにドッグファイトで負けてしまうのか。

そこで次に、エリア51で米軍機とミグの模擬戦を行うことにした。

バーンズは語る。

「ミグは飛ばしてみて初めて理解できた。どれほど敏捷かがね。

テストで分かったのは、ミグを撃墜するのは機動飛行される前に背後に回るしかない事だった。

最初のチャンスで仕留めないと、2度目のチャンスはないということだ。

ミグの予備パーツなんて無いから、部品はリバース・エンジニアリングして1から作らねばならなかった。

ソ連はスパイ衛星で、このテストを監視していた。
多い時は45分に1度、衛星がやってきたほどだ。」

米軍は、中東で接収されたソ連製のレーダーも、エリア51に運び込んだ。

そうしたレーダーの技術的な評価はバーンズに一任されたが、バーンズはナイキミサイル(アメリカ製の地対空ミサイル)を用意してほしいと要求した。

「ミグをはじめとする飛行機をナイキミサイルに追尾させて、ミサイル誘導のレーダーに対するECM(電子妨害手段)の性能をテストしたんだ。」

このミグの極秘計画は、戦闘機パイロットの養成学校、いわゆる「トップガン」を生んだ。

数十年も隠され続けたこの学校は、正式名称を「アメリカ海軍の戦闘機兵器学校」といい、ミグがアメリカに渡った1年後の1969年3月に、カリフォルニア州ミラマーに設立された。

教官になったのは、エリア51でミグと模擬戦をしたパイロットたちで、訓練を受けたパイロットはベトナム戦争に投入された。

1984年4月26日にロバート・ボンド中将は、エリア25を訪れたが、そこにあるミグ23に魅了された。

CIAと空軍は、15年前にミグ21のリバース・エンジニアリングをして以降、ミグ15、ミグ15、ミグ23なども入手してリバース・エンジニアリングをしていた。

バーンズは語る。

「ミグ23は恐ろしく速くて、マッハ3に近かった。
でも操縦が難しかった。」

ボンド中将はかつてパイロットで、ミグ23の操縦を希望し、エリア25を飛び立ったが、制御不能になり墜落死した。

中将の死なので隠蔽するわけにもいかず、「ミグ23を操縦中に墜落死した。ミグ23はエジプトから提供された」とマスコミにリークした。

この部分的な情報公開により、エリア25やエリア51などの秘密は守られた。

(2020年7月27~28日に作成
2021年8月15日に追記)


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