NASAのX-15開発

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

ネヴァダ州のエリア51で働いた事もあるソーントン・T・D・バーンズは、こう回想する。

「私はレーダー技術に詳しく、1960年代の初めは、ドイツでホークミサイル発射基地の指揮を任されていた。

62年に帰国すると、ヴェトナムで現地顧問になる話が来たが、流れてしまった。

それでユニテック社が遠隔測定法とレーダー技術の専門家を探していたので、就職した。

ユニテックは、私をネヴァダ州ビーティという辺鄙な町に派遣した。」

ビーティは人口が430人ほどだが、ネヴァダ核実験場の隣りにあり、住民の大半が連邦機関の職員だった。

バーンズは説明する。
「ビーティは闇の活動をする政府機関がいくつもあったけど、ユニテックはそんな機関の表札の役割をしていた。」

バーンズはそこで、NASAのX-15ロケットプレーンの研究に参加した。

「X-15ロケット機」は飛行機だが、見た目も挙動もむしろ翼の付いたミサイルに近かった。

X-15は、宇宙のきわまで行ける最初の有人機で、最高高度は10万8千mだった。

バーンズたちはNASAのビーティ高高度追跡基地で働いたが、連日レーダーでX-15を追跡した。

X-15はカリフォルニア州のドライデン飛行研究センターから打ち上げられ、宇宙空間とのきわまで到達する。

そして方向転換し、マッハ6のスピードで帰ってくる。

操縦席は想像を絶するほど激しく揺れるが、遠隔測定しパイロットの状態が監視された。

バーンズは言う。

「パイロットの身体に何が起きているか、私たちは当のパイロットより分かっていた。
地上のビーティから監視し、心拍数や脈拍などを把握してたんだ。」

X-15は、NASA以外の政府機関も関わっていて、資金の大半は空軍が出していた。

CIAも、X-15の圧縮空気を動力とするラムジェット・エンジンの技術に注目していた。
それはCIAが開発している、D-21無人偵察機に利用できるからだ。

ソーントン・バーンズが、ビーティで追跡していた飛行機には、XB-70戦略爆撃機もあった。

XB-70計画は、40億ドルを投じながら議会の決定で開発中止になったB-70計画の後釜だ。

Bの前に付く「X」は、超音速の実験機であることを意味している。

1966年6月8日に、XB-70の衝突事故があり、パイロットが1人死んだ。

これにより開発計画は終了となり、X-15ロケットプレーン計画も終焉をむかえた。

(2020年7月29日に作成)


『アメリカ史 1960年代』 目次に戻る

『アメリカ史』 トップページに戻る

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く