(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
1961年には、東南アジアは共産主義に向かっていた。
1955~61年の間に、アメリカは東南アジアに10億ドルを注ぎ込み、658人の軍事顧問をベトナムに、500人をラオスに送り込んでいた。
しかし、あまり効果はなかった。
アジアにおける最大の同盟国である日本は、東南アジアを資源の調達地として必要としていた。
ケネディ大統領にとっての緊急な問題は、ラオスにできたホー・チ・ミン・ルートだった。
ホー・チ・ミン・ルートとは、北ベトナム軍が南ベトナムに入り込むための経路のことである。
ジュネーブ協定では、「ラオスは中立国」とされていた。
しかしアメリカはそれを無視し、フォルミ・ノサバン将軍の親米政権を誕生させた。
ラオスの共産主義派であるパテト・ラオと、中立勢力は、主要拠点を押さえてノサバン政権に対抗した。
アイゼンハワーは、ケネディに政権を譲るにあたり、「ラオスは東南アジアの門口であり、ここが共産勢力に落ちたら、東南アジア全体が共産主義になる」と警告していた。
1961年4月にケネディは、第7艦隊とヘリコプター部隊をラオスに送り込んだ。
その結果、ノサバンとパテト・ラオは休戦したが、CIAが支持していた極右勢力は戦いを止めなかった。
そのためパテト・ラオは反撃し、ラオスを掌中に入れそうになった。
ケネディは、アメリカ空軍と海兵隊をラオス国境に配備して、脅しをかけた。
そこでラオスでは停戦が成立し、全ての外国軍はラオスから撤退することになった。
しかしパテト・ラオは勢力拡大を続け、アメリカは中道右派の政府に武器を与えて、空爆も行った。
1964年に右派が政権をとると、安心したCIAは大挙してラオスに戻った。
(2014.3.23.作成)