CIAに雇われてピッグス湾侵攻作戦にも関わった亡命キューバ人の回想

(『秘密工作者』フェリス・I・ロドリゲス著から抜粋)

私は1941年5月に、キューバのハバナで生まれた。
兄弟はなく、一人っ子である。

父は商人で、叔父に弁護士2人、会計士2人など、裕福な一族だった。

トト叔父(ホセ・アントニオ・メンデグティア)は、バティスタ政権で公共労働大臣をしていた。

トト叔父のすすめて、私は1954年9月にアメリカに留学した。

休暇になるとキューバに戻り、ぜいたくな暮らしをした。

キューバのバティスタ政権は、アメリカのマフィアと手を結び、ハバナのホテルやカジノで荒稼ぎしていた。

政権は腐敗しており、それと対抗する革命家のカストロが頭角を現わした。

カストロのクーデターは成功して、バティスタとその家族は1959年の元旦に逃亡を図った。

私やトト叔父は、アメリカに亡命した。

すぐに、隣国のドミニカ共和国で、カストロと戦う「カリブ反共産主義軍(ACL)」が結成された。

ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーヨは、反カストロだった。

カストロは1959年6月までに、250人のキューバ人ゲリラを、革命を起こすためにドミニカ共和国に潜入させていた。

私はドミニカに行って、反カストロの軍に入ることにした。まだ17歳だった。

ドミニカで軍事訓練に参加した。
その基地には350人の訓練を受ける者がいて、100名ほどがキューバ人だった。

スペイン人が150人ほどいて、ミグ戦闘機と共に亡命してきたユーゴスラビア人のパイロットもいた。

訓練を終えた私たちは、バティスタとその家族がキューバを脱出した夜に乗った3機のC-47のうち、1機を使ってキューバに潜入することになった。

私は若かったからメンバーから外れたが、この作戦は失敗に終わり、参加者は殺されるか、捕まった。

私は病気になり、1959年11月に両親のいるアメリカのフロリダ州マイアミに移った。

当時マイアミは、亡命キューバ人で溢れ返っていた。

私は反カストロのグループである「キューバ立憲十字軍(CCC)」に近づいた。
CCCのリーダーは、ペドロ・ルイス・ディアス・ランスだ。

ディアス・ランスの側近に、フランク・スタージスがいた。

フランク・スタージスは、後にウォーターゲート事件に連座した人だ。

私はスタージスのアイディアで、ワシントンに行き、コラムニストのジャック・アンダーソンに支援を求めた。
そして「キューバで戦うための訓練キャンプが必要だ」と伝えた。

アンダーソンが、場所と武器を用意してくれることになった。

(※CIAの要員には、ジャーナリストもいる。
ジャック・アンダーソンはまず間違いなくCIAの者だ。

フランク・スタージスはCIAの工作員として働いた者で、ケネディ暗殺の実行犯の1人にもなっている。)

CIAは1959年12月の時点で、西半球局長のJ・C・キングが、カストロ政権に策を講じるようにと、CIA長官のアレン・ダレスに覚え書を提出していた。

1960年1月にダレス長官は、カストロへの作戦を示唆した。

1975年のアメリカ上院の報告書『外国要人を含む暗殺計画申し立て』に、そのことが書かれている。

五四一二グループ、または第40委員会、303委員会の名でも知られる組織が、カストロらの暗殺計画を決めた。

五四一二グループは、CIA、国務省、国防総省などの代表で構成されていた。

亡命キューバ人たちのカストロ打倒の活動は、CIAの作戦だったと、今では明らかになっている。

CIAが工作員を雇うやり方は、次の通りだった。

マイアミの亡命キューバ人たちが、ある店に行って応募用紙に記入すると、CIAに雇われてゲリラになる仕組みだ。

私も応募用紙に記入したところ、マイアミの南にある空家に運ばれ、まず全員に認識番号が与えられた。
私の番号は二七一八だった。

持参した服や所有物は取り上げられ、裸にされて何か隠し持ってないかを調べられた。

その後、飛行場に運ばれて、グアテマラに連行された。

グアテマラに着くと、ジャングルの中にあるCIAの訓練キャンプに連行された。

我々を軍事指導した教官は、大半が外国人で、アメリカで訓練を受けたフィリピン人のナポレオン・バレリアノ大佐が率いていた。

キャンプに来て3ヵ月後、グアテマラ大統領であるミゲル・イディゴロス・フェンテスに対する反乱を鎮圧する援軍として出動した。

(※CIAが、グアテマラの政治に介入していることがよく分かる)

CIAは1954年に、グアテマラでクーデターを起こして、ハコブ・アルベンス・グスマンの政権を倒していた。
そして傀儡政権を作った。

CIAはグアテマラをモデルに、キューバでも政権転覆しようとしていた。

1960年の終わり頃に、私は最終訓練のため、パナマに送られた。
パナマでも軍事訓練を受けた。

私はカストロの暗殺を志願し、CIAはそれを承認した。

我々は3度、キューバ潜入を試みたが、いずれも失敗した。

かなり後になって、「マングース作戦」という、CIAのカストロ暗殺作戦があったことを知った。

我々が行ったのは、それとは別の作戦で、ライフルでカストロを狙撃する計画だった。

我々は1961年2月18日に、キューバに船で潜入した。

副官はローランド・マルチネスで、後にウォーターゲート事件に関わり名が知られた人だ。

潜入に成功して、隠れ家で暮らした。
すると1961年4月17日に、亡命キューバ人たちがピッグス湾に侵攻したとのニュースがラジオで流れた。

(※著者がピッグス湾侵攻作戦に加わっていたことが、この記述から窺える)

この侵攻作戦は失敗で、私の仲間たちは次々とカストロ軍に捕まっていった。

私は捕まらないために、ベネズエラ大使館に亡命申請した。

ベネズエラとキューバは、政治亡命者の国外脱出を認める協定を交わしていた。
さらに私の祖父母に、ベネズエラ大使と親しい友人がいた。

私はベネズエラ大使館に逃げ込んだが、それから6ヵ月間、この建物内で暮らし、出国許可を待つことになった。

大使館内には、100人以上の逃亡者で溢れていた。

1961年7月に、ベネズエラ大使館に逃げ込んできだキューバ陸軍の大尉が、「ソ連が(キューバの)オリエンテ州にミサイル基地を建設中だ」と、私に言った。
彼はそのトンネルで働いていたという。

私はこの情報を、報告書にして大使館の職員に渡した。

CIAのエージェントだった私の従兄弟のホアキン・パウエルも、CIAにミサイル基地のことを報告した。

だがアメリカ政府(ケネディ政権)は動かなかった。

1961年9月にキューバ政府は、私の国外移送を認めて、私はフロリダ州マイアミに戻った。

1961年9月頃に、反カストロ作戦を指揮するため、セオドア(テッド)・シャクリーというCIA士官がベルリンから呼び戻された。

シャクリーは1962年の初めに、CIAのマイアミ支部にやってきた。

シャクリーの副官として、CIAのトム・クラインズもやって来た。

私はトム・クラインズの下で、その後15年以上働くことになる。

CIAマイアミ支部は、米国内で唯一、CIAの全機能を備えた支部である。

暗号名は「JM-WAVE」で、巨額の予算を持っていた。

私のようなマイアミ支部に雇われた亡命キューバ人の工作員は、数百人もいた。

だがマイアミ支部には、亡命キューバ人の士官は1人もおらず、私たちは組織の底辺だった。

私は1965年に知ったが、マイアミ支部は、マイアミ大学の古いキャンパスに本部があった。

(※スパイ組織が大学と結びつくのは結構ある。スパイの新人を大学生からスカウトする事もある。)

私は、CIAに雇われた亡命キューバ人たちの主任だったが、月給は175~225ドルで、生活するのがやっとだった。

私は、CIAが提供する兵器を、キューバに密輸する工作に従事した。

私は1962年6月に、CIAの担当士官に「工作員をやめて、定職につきたい」と申し出た。

当時の私は、まだCIAと正式な契約を交わしておらず、口頭で関係を結んでいた。
契約書にサインしたことはなかった。

私は米陸軍からスカウトされ、就職してジョージア州フォート・ベニングの歩兵学校で学んだ。

その後、民間で通信活動をするよう指示されて、軍を除隊し、ニカラグアで通信網を2年ほど管理した。

この作戦は大規模で、300人以上がニカラグア、コスタリカ、マイアミの3基地で活動した。

活動資金はCIAが出していたが、資金の出所は秘密にされて、「マリティマBAM」という架空の会社名を使った。

この作戦のあった2年半に、CIAが使ったカネは600万ドルにのぼった。

この作戦では、ゲリラ攻撃を期間中に14回行い、4回は目的を達成した。

この間、キューバのカストロ政権が、ガブリエル・アルブエイネというスパイを送り込んできた。

尋問したらスパイだと認めたので、しばらく閉じ込め、ニカラグアのソモサ政府に引き渡した。

ソモサ政府は、アルブエイネを投獄した。
彼はチリ政府の保護下に置がれた後、キューバに戻った。

CIAが行った反カストロのゲリラ作戦の1つが、「ゼノン・ヴィエラ2」と称する、1964年5月の作戦だった。

目標はオリエンテ州の南岸にある砂糖工場で、10人のゲリラを用意して爆破した。

キューバの船を襲う作戦も行ったが、間違えて中立のスペイン船を襲い、船長を殺して、乗組員たちを負傷させてしまった。

この直後、我々はニカラグアから移動して、アフリカのコンゴで活動するように命じられた。

だが私は短期間、ベネズエラでの仕事をCIAに命じられた。
3ヵ月間、ベネズエラのカラカスで2人のアメリカ人と働いた。

私は、ルイス・ポサダ・カリレス(別名ラモン・メディナ)を知っている。

初めてポサダ・カリレスに会ったのは1963年で、ジョージア州フォート・ベニングで軍事訓練を受けた時だった。

1960年代に彼は、ベネズエラの情報局DISIPでかなりの地位まで昇進した。
ラファエル・カルデラ大統領の時代のことだ。

当時に彼は、カルロス・アンドレス・ペレスという政治家が愛人とたわむれているテープを入手したという。

1974年にペレスが大統領に当選すると、カリレスは解雇された。

1976年10月6日にキューバ航空機の空中爆発で73人が死亡すると、ペレスは犯人としてポサダ・カリレスを投獄した。

彼は1985年8月に刑務所を脱獄し、オランダ領のアンティル諸島に密航して、中米に隠れた。

私は頼まれて、彼にエルサルバドルでの仕事を世話した。

(2024年6月20~21日に作成)


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