チェ・ゲバラの逮捕に働いたCIA要員の回想、ゲバラの死

(『秘密工作者』フェリス・I・ロドリゲス著から抜粋)

CIAに雇われていた私は、1967年のある日、CIAの士官から電話をもらった。

南米に行き、ボリビア政府と協力して、チェ・ゲバラを捕まえろと言うのだ。

この仕事を引き受けて、呼び出されたワシントンに着くと、エドアルドという男が私を待っていた。

エドアルドはCIAの者で、一緒に行くという。
彼とは1963年にCIAの軍事訓練所で、すでに会っていた。

私たちが探すチェ・ゲバラは、革命家で、キューバのカストロ政権で大臣をしたが、1965年にキューバを離れていた。

彼はコンゴで革命運動をした後、ボリビアに来て共産ゲリラを指揮していた。

ボリビアは山の多い険しい地形の国で、国民の大半はインディオの農民である。

1964年に前空軍大将のレネ・バリエントス・オルトゥーニョが権力を奪い、66年8月に大統領に就任していた。

ボリビアの人々は伝統的に、ひげや長髪を嫌った。
このことにチェ・ゲバラたちは無頓着で、支援を受けづらくしていた。(※ゲバラはひげと長髪の人である)

アメリカ特殊部隊のパピイ・シェルトン少佐は、ボリビア軍に訓練をほどこし、特殊部隊を育てていた。
シェルトンは元グリンベレー隊員だ。

アメリカ軍は、ボリビアの士官に尋問技術などを教えていた。

CIAに雇われている、私の友人でもあるキューバ生まれのガブリエル・ガルシア(本名はフリオ)は、ボリビアの公共安全担当相の情報顧問をしていた。

彼らは、チェ・ゲバラの仲間の作家レジ・デブレを1967年4月20日に逮捕し、徹底的に尋問した結果、ゲバラの活動のすべてを自白させた。

デブレは協力した見返りに、1970年末に釈放された。

私とエドアルドは、1967年8月1日にボリビアに向けて出発した。

私たち2人は、キューバの実業家というニセの肩書で、商用のためと偽って、ボリビアに入った。

もちろんボリビア政府は、私たちの正体を知っていた。

ボリビアではCIAの者が出迎えてくれて、私たちはまずボリビア大統領のレネ・バリエントス・オルトゥーニョを訪問した。

大統領は私たちに小さなカードをくれたが、そこには私たちの求めに応じて協力するようにとの大統領の署名があった。

私たちは次に、ボリビア軍の参謀長であるアルフレド・オバンド・カンディア将軍に会った。

彼は、軍の身分証明書の交付を認可し、私たちはボリビア軍の一員と認定された。

(※当時のボリビア政府が、アメリカ政府やCIAと深く繋がっていたのが、ここまでの話から分かる)

ボリビアで私は、アルノルド・サウセド少佐とホアキン・センテノ・アナヤ大佐という、2人のボリビア軍の諜報将校と共に活動することになった。

私のボリビアでの日課は、チェ・ゲバラの部隊の1人1人について、集めた情報をファイルにまとめていくことだった。

4週間ほど経った8月31日に、ゲバラの部隊にいるホセ・カスティーヨ・チャベスが逮捕された。

私は2週間かけてチャベスを尋問した。

他にもイスラエル・レイエス・サヤスというゲバラのゲリラ部隊にいる男が、ボリビア軍に殺され、その男の日記が入手できた。

日記には貴重な情報が書いてあった。

1967年10月8日に、チェ・ゲバラをボリビア軍が捕まえたとの連絡が入った。

私たちは戦闘機に乗りこみ、現場に向かった。

チェ・ゲバラをどう扱えばいいのか、指示を仰ぐため、長い暗号文をCIAに送った。

私はCIAに、「ゲバラを生かしておきたいなら、そのことを早急にボリビア政府に伝えるべきだ」と進言した。

ボリビア人には捕虜を生かしておく習慣がないことに気付いていたからだ。

現場に到着すると、私たちはゲバラの持ち物を調べた後、後ろ手に縛られて脚もくくられているゲバラに会った。

すぐそばには、2人のゲリラの死体が転がっていた。

同行していたセンテノ大佐がいくつか質問したが、ゲバラは答えなかった。
私たちに目を向けようともしなかった。

私はゲバラを写真にとった。

CIAは、チェ・ゲバラをパナマに運んで尋問したがったが、ボリビア軍はゲバラを殺すことに決めた。

私は殺される直前のゲバラと少し話した。

ゲバラはこう言った。

「ヤンキー(アメリカ)の帝国主義にとって、ベネズエラやニカラグアは要所だから、なかなか思うようにさせてくれない。

だからアメリカからかなり離れた、ボリビアを選んだ。

それにボリビアは、5つの国と接しているから、ボリビアで革命が成功すれば、他の国に移動することもできる。

だがボリビア人は偏狭で、 革命をプロレタリアートのための国際的活動ととらえられない。
自分たちだけの問題と思ってしまう。

司令官もボリビア人でなければ承知しない。私に経験があってもダメなんだ。」

私は言った。

「あなたは元は医者なのに、キューバのカストロ政権では国立銀行の総裁になっていましたね。」

ゲバラが答えた。

「面白い話を聞かせてやろう。
ある時フィデル(カストロ)が、『経済に詳しいやつ(エコノミスタ)はいないか』と訊いた。

私はてっきり『共産主義に詳しいやつ(コミュニスタ)はいないか』と訊かれたと勘違いした。
だから手を上げたのさ。」

チェ・ゲバラは、1967年10月9日の午後1時10分に、ボリビア軍兵に射殺された。

ゲバラの遺体はヘリで運ばれ、CIA職員のエドアルドがヘリから運び出した。

この時にエドアルドはジャーナリストに写真にとられて、「CIAエージェントのフェリス・ラモス」と世界中に報道された。

私はCIAの者と落ち合い、ゲバラに関するフィルムやメモを渡した。
ゲバラが死んでからまだ3日と経っていなかった。

1968年に入ると私は、CIAの指示でエクアドルで働くことになった。
テロやゲリラ対策のために、諜報部隊の訓練に協力することになったのだ。

それでエクアドルの首都キトに向かった。

私が指導するのは、皆が20代の若者で、アメリカに留学して軍かFBIの教育を受けた者が大半だった。

私はエドアルドと共に指導した。

エドアルドは、チェ・ゲバラの死体を選んだ時に顔を写真にとられてしまい、世界中にCIAの者だとバレたから、エクアドルの仕事の後はCIAからもう仕事は来なかった。

なお、チェ・ゲバラを捕まえる作戦で私たちと協力した、ボリビア軍のホアキン・センテノ・アナヤ大佐は、1975年5月11日にテロリストにパリの路上で射殺された。
カストロの差し金だと思われた。

私は1968年の後半には、ペルーで落下傘部隊の指導をする任務についた。

CIAは当初、ペルーに米軍の特殊部隊を置く構想だった。
だからCIAの者が、スパイ技術と通信技術を教えたのだ。

キューバ生まれで、アメリカに亡命してCIAに雇われた私だが、1969年2月にアメリカ国籍を得た。

アメリカは当時、ベトナムで戦争をしていた。
私は愛国的な気分が高まっていたのもあり、ベトナムで働くことにした。

1970年3月に、私はベトナムに向かった。
表向きは米軍の軍属だったが、実際はCIAのエージェントだった。

当時、CIAのサイゴン支局は、世界中の支局の中で最重要とされていた。

このことは、5つの軍管区がそれぞれ独立国家のように扱われていた事にも現れている。
各管区にそれぞれ支局長がいた。

私たちのボスはサイゴン支局長のテッド・シャクリーで、私たちにとって神のような存在だった。

私はベトナムで25ヵ月、働いた。

その後は、アルゼンチンやレバノンに派遣されたりした。

(2024年6月21日に作成)


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