レーガンはソ連を挑発する行動をとり、米ソの緊張が高まる

(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ3』から抜粋)

ロナルド・レーガンは大統領になると、ソ連を批判して挑発する行動を続けた。

1983年11月には、地上発射型の巡航ミサイルをイギリスに、パーシングⅡミサイルを西ドイツに配備し、軍事演習「エーブル・アーチャー83」を実施した。

この演習は、核兵器の使用も含めたシュミレーション訓練である。

1983年の末には、米ソの関係は過去20年で最悪となった。

その一方で、アメリカでは核戦争を描いた映画が何本も作られて、それにより核開発凍結の市民運動が盛り上がった。

実はレーガン自身も、核戦争を怖れていた。

1983年には、「爆撃機や潜水艦が核兵器を積むことはしない」と発言したくらいだ。

彼はアドバイザーに向かって、「核兵器は邪悪なもので、根絶しなければならない」と何度も話していたという。

レーガンはハルマゲドンの到来を信じており、それを核戦争と同一視していた。

そして、「アメリカを守るには、国全体を大きなテントで覆えばいい」と考えるようになった。(※SDI構想のこと)

この『飛んで来るミサイルを打ち落とす』という構想を、ソ連は大きな挑発と受け取った。

1983年9月に、ソ連の戦闘機によって大韓航空の旅客機が撃墜された。

ソ連の領空内に入ったためスパイ機と見なされ、何度かの警告を無視したため撃墜されたのだ。

乗員269人の全員が死亡し、61人はアメリカ人だった。

レーガン大統領はこの事件を、「大虐殺、蛮行、人類全体に対する犯罪」と非難した。

だが、レーガンの回顧録を読むと、違った考えを持ったと分かる。

「この事件により、核軍縮の重要性を思い知らされた。

1人の軍人が旅客機と軍用機を見間違えただけで、これほどの事が起きる。

もし核ボタンを押せる立場の人間が同様の誤解をすれば、はるかに恐ろしい悲劇につながる。」

レーガンの懸念は、翌月に再び高まった。

映画「ザ・デイ・アフター」の試写版を見たのだ。

この映画は核戦争を描いており、街が一瞬で壊滅する場面があった。

レーガンは落ち込み、心配したアドバイザーたちはリチャード・パールに説得させた。

パールらは、レーガンの説得に成功し、核軍備の増強政策を守らせることに同意させた。

この時期に、ソ連の指導者は、アメリカの軍備増強とレーガンの挑発的な言葉から、「アメリカは先制攻撃の準備をしている」と解釈するようになった。

レーガンは1983年11月18日の日記に、「アメリカの攻撃を恐れるソ連は、被害妄想だ」と書いている。

レーガンは回顧録の中で、こう振り返っている。

「大統領になってからの3年間で、私はロシア人について驚くべき事を学んだ。

それは、ソ連の指導者たちの多くが、真にアメリカを恐れているという事だ。

それに気付いても、最初のうちはなかなか受け入れられなかった。」

レーガンは徐々に現実を知り、83年10月にはシュルツ国務長官に「ソ連のアンドロポフ書記長に会いに行って、核兵器の全廃を提案したほうがいいかもしれない」と言った。

一方ソ連では、レーガン政権が行った1983年11月のパーシングⅡミサイルや巡航ミサイルの西ヨーロッパへの配備で、恐怖心が高まった。

その結果、指導者たちは『完全に自動化された報復攻撃システム』を構想した。

このシステムは、「アメリカの先制攻撃でソ連の指導者たちが命令できない状態になっても、コンピュータが自動的に報復攻撃する」というものだ。

導入は見送られたが、代わりに『地下深くのシェルターに隠れた担当官が、報復攻撃を決断できるシステム』が採用された。

このシステムは、84年11月に試験が行われて、間もなく正式に運用が開始した。

このシステムで問題となったのは、「すでに自国が壊滅したと分かっている状況で、担当官は報復攻撃を決断するだろうか」だった。

地球の半分が壊滅した後で、もう半分を壊滅させて何の意味があるのか。

レーガンは核戦争を嫌悪していたが、「核兵器を使って一気に敵を打ち負かすこと」を夢想してもいた。

その考えが、ラジオ出演した時にうっかり表に出てしまった。

サウンドチェックの際に、彼はジョークでこう言ったのだ。

「国民の皆さん、今日は喜ばしいお知らせがあります。

私は、ロシアを永遠に世界から追放する法律に署名しました。

これから5分以内に、核攻撃が始まります。」

これは録音されており、公に出回ってしまった。

国内外から激しい批判が起き、ヨーロッパではトップニュース扱いとなった。

国内では、大統領への適性を疑う声が出た。

レーガンが閣議中によく居眠りをしている事を、次席補佐官のマイケル・ディーバーが認めると、事態はさらに悪化した。

多くの有識者が「彼は大統領にふさわしくない」と発言し、ついにはレーガンの知能レベルを疑う声まで上がった。

ジョージ・シュルツ国務長官は、ソ連との関係改善を担当し、1982年半ばに戦略兵器を削減するための交渉を始めた。

この交渉は、『START(戦略核兵器の削減条約)』を結ぶためのものだ。

だがレーガンは、同時に軍拡を訴えるキャンペーンもしていた。

彼は「ソ連は軍事的に優位に立っています」と語っていたが、実際にはアメリカの方が優位にあった。

1985年時点で、アメリカは1万1188発の戦略核弾頭があったが、ソ連は9907発だった。

すべての核弾頭数でも、アメリカは2万924発で、ソ連は1万9774発だった。

この頃に、「小規模な核戦争であっても、大気中に大量の煙・塵・灰が散って日光がさえぎられ、地球は長期間にわたって寒冷化する」との予測が科学者によって成された。

この予測は、軍縮の機運を高めた。

(2015.7.25.)


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