1980年の大統領選、共和党のレーガンが勝つ
レーガンはバカだった

(以下は『世界歴史体系 アメリカ史2』から抜粋)

1980年の大統領選挙では、共和党候補のロナルド・レーガンが圧勝した。

アメリカ社会の保守化の気運にのった勝利だった。

レーガンは、過激な論調を控えて、おだやかな態度で魅力をアピールした。

「強いアメリカ」の再現を謳い、外交面で欲求不満となっていた国民に支持された。

共和党は、対ソの軍事優位、財政支出の削減、減税、原発の推進、死刑の復活、中絶廃止など、保守の政策を打ち出した。

共和党は、1954年以来で上院を制した。

この年の連邦議会選挙は、民主リベラル派の落選が多かったのも注目された。

ロナルド・レーガンは69歳と、史上最年長での大統領就任だった。

彼はカリフォルニア州の知事を、1967~76年に務めていた。

自助と民間の創意を信条とし、ニューディール政策で産まれた福祉国家体制を攻撃した。

かなり攻撃的な保守といえる。

彼の政策は、「小さな政府」というキャッチフレーズで表現された。

政府に頼ることを倫理面から批判し、財政再建のためにカーター政権が創ったエネルギー省と教育省の廃止を打ち出した。

(エネルギー省は1981年末に廃止が決まった)

政府職員の大幅な削減に着手し、規制解除と福祉の圧縮を行った。

(2016年1月24日に作成)

(以下は『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ3』から抜粋)

ロナルド・レーガンは、地味な俳優からスタートし、その後にテレビ番組「ゼネラル・エレクトリック・シアター」の司会などを経て、1967~75年にはカリフォルニア州知事を務めた。

表では家族の大切さを訴えていたが、自身は子供たちと疎遠であり、アメリカ史上唯一の離婚歴を持つ大統領だった。

レーガン政権で副大統領をした父ブッシュは、「レーガンの国際関係に関する考え方は、想像を絶するほどのものだった」と述べている。

レーガン政権でNSC(国家安全保障会議)のソ連・東欧問題顧問を務めたリチャード・パイプスは、「NSCの会合では、大統領は完全に上の空だった。話の内容が理解を超えていて、とても居心地が悪そうだった。」と話す。

テロ対策コーディネーターだったアンソニー・クイントンも、「私が状況を説明した時、レーガン大統領はゼリービーンズを2つほど食べると、居眠りを始めた。私はすっかりやる気を無くしてしまった。」と語っている。

前任者のカーター大統領が引き継ぎをした際には、レーガンが全く話に関心を示さないので困惑したという。

カーターの報道官だったジョディ・パウエルは、こう証言する。

「カーターは、レーガンが知っておくべき非常に重要な事を話した。
それなのに、レーガンは説明を聞き流し、質問の1つもせず、メモすら取らなかった。」

1982年の終わりに中南米の訪問から戻ったレーガン大統領は、記者たちに「驚いたね、中南米があんなに沢山の国に分かれているなんて」と言った。

下院議長だったティップ・オニールは、「自分は下院に34年間いたが、レーガンほど物を知らない大統領は居なかった」と言っている。

レーガンは、『ほら話』が多かった。

1983年末にイスラエルのシャミール首相と会談した際、「第二次大戦中にカメラマンとして、ナチスの強制収容所から捕虜が解放される様子を撮影した。捕虜たちの苦境に大きな衝撃を受けた。」と語った。

シャミールは感銘をうけたが、その後にレーガンは大戦中に一度もアメリカを離れていない事が判明した。

レーガンは、「生活保護の女王」のほら話を何度もしている。

その女王は、80の名前と30の住所を持ち、非課税所得が年間15万ドルを超えているという。

「強欲で不正な黒人が、白人からカネを盗んでいる」と非難したかったのだ。

レーガンは、著名人の言葉を捏造することも多かった。

レーガンは、相手が外部からの訪問者であっても、閣僚であっても、誰かと会話する時はスタッフからカードを渡されていた。

そこに書かれた文章を、そのまま読み上げるのだ。

レーガンの補佐官となったウィリアム・クラークは、彼があまりに無知なのにショックを受けた。

そして、世界の指導者たちを解説する映画を制作するように、ペンタゴンとCIAに指示した。

レーガンはあまりに無知だったため、部下には入り込む隙間が大きかった。

入り込んだ1人が、副大統領のブッシュである。

ブッシュは、ロックフェラー、モルガン、ハリマンといった財閥と古くから繋がりがあった。

彼はイェール大学を出た後、テキサスで石油商人となった。

1970年には、ニクソン大統領の指名で、共和党の全国委員会の委員長に就いた。

レーガンが判断を下さないので、部下達は主導権をめぐって激しく争った。

ただし、すべてを隠密に進めるという強い意思だけは、皆に共通していた。

カーター政権はCIAの行動を制限したが、レーガン政権はそれを一転させた。

CIA長官に指名されたウィリアム・ケーシーは、「ソ連はすべての国際テロの元凶である」と信じていた。

CIAは「ソ連はテロと闘っている」と知っており、それをケーシーに伝えたが、彼は信じなかった。

レーガン政権内の強硬派たちは、「ソ連は危険で、常に勢力の拡大を追求している」との見方をしていた。

実際には、当時のソ連はすでに崩壊に向かっていた。

(2015年7月12日に作成)


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