(『日経新聞 私の履歴書 アラン・グリーンスパン』2008年連載から抜粋)
1987年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場は508ドルの下落となった。
下落率は22.5%で、史上最悪の暴落だった。
FRB議長の私の電話は、かかりっきりになった。私はダラスにいた。
翌日の早朝にホワイトハウスから電話があり、ワシントンに呼び戻された。
ニューヨーク証券取引所が取引停止を計画中と、連絡を受けた。
「そんな事をすれば本当の大惨事になる」と止めて、取引は幸い継続された。
パニックに陥った銀行の首脳たちを落ち着かせるため、私は励まし続けた。
レーガン大統領は「経済指標は堅調だ」と語ったが、これは1929年の株大暴落の時のフーバー大統領の発言と似すぎだった。
だからベーカー財務長官と一緒に、「議会と協力して財政赤字を削減するよう提案すべきだ」と、レーガン大統領に訴えた。
株式市場の危機は1週間以上続いたが、その後は落ちついた。
私がFRB議長になって2ヵ月後の出来だった。
私は、生まれも育ちもニューヨークのマンハッタンである。
父はウォール街の小さな証券会社でセールスをしていた。
だが私が生まれた直後に両親は離婚していた。
私の両親は共に、東欧から移住してきたユダヤ教徒だ。
母のローズは、離婚後は実家に戻り、家具店の販売員をしていた。
伯父の1人はピアニストで、ブロードウェーのミュージカル曲も書いていた。
少年の頃、私は音楽に興味をもち、クラリネットの練習に励んだ。
ジャズのベニー・グッドマンやグレン・ミラーが、私のヒーローだった。
高校は、公立のジョージ・ワシントン高校に通った。
学校にはナチスの迫害を逃れてやってきた、ユダヤ教徒の子が多くて、クラスも膨れ上がっていた。
その中にヘンリー・キッシンジャーもいたが、当時は面識はなかった。
1941年の冬に日本軍が真珠湾を攻撃し、私もラジオのニュースできいた。
しばらくすると配給制が始まり、日本を攻撃する大量のプロパガンダも始まった。
戦争のせいで、18歳になれば大半の学生が徴兵されることになり、私にとっても身近な問題だった。
大学進学は考えなかった。いずれ徴兵されると思ったからだ。
18歳になってすぐに徴兵令状を受け取った。
だがX線検査で胸に影があると、私だけが呼び止められ、一年の経過観察が必要と診断された。
高校を卒業すると、ヘンリー・ジェローム楽団にサックス奏者として入団し、プロのミュージシャンになった。
作曲家のジョニー・マンデルは、当時この楽団でトロンボーンを演奏していた。
私は読書をしているうちに銀行家のJ・P・モルガンに魅かれていき、ウォール街こそ目指す世界だと思った。
そこで1945年の秋に、ニューヨーク大学の商業会計金融学部に入った。
学生たちはケインズ経済学に夢中になっていたが、私だけは違った。
統計資料を読みあさった。
私はデータを分析し、そこからストーリーをまとめる仕事をおぼえていった。
私の指導教官は、後にFRB議長となるアーサー・バーンズだった。
教授をもう1人あげるとすれば、ジェーコブ・ウルフォウィッツだろう。
世銀・前総裁のウォルフォウィッツ氏の父親だ。
私は、経済モデルの欠陥を探し当てるのが得意だった。
この頃、26歳で結婚したが、2年後に離婚した。
私は、ロシアから亡命していた小説家で思想家のアイン・ランドと出会い、心酔するようになった。
それまでの私は市場の効率性に関心を持つエコノミストだったが、彼女に会い歴史や文化にも興味が広がった。
そして個人の自由を尊重し、国家の介入を厭う、リバタリアニズムが私の価値感となった。
アイン・ランドは、ソ連の共産主義を憎んでいた。
後になって、私が大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長になり、その宣誓式をした時、隣にランドが立ったことが注目を集めた。
私が発表した論文で反響がとりわけ大きかったのは、「航空戦力の経済学」だ。
これは、朝鮮戦争と冷戦で国防総省が検討していた、軍用機の増産計画を分析したものだ。
素材や部品の需要を推計した。
(※この論文が一番反響がある所に、アメリカが軍事国家で、軍需がビッグ・ビジネスだという事実が現れている)
私が26歳の時に、経済金融調査会社を経営するW・タウンゼントから、「会社の共同経営者になってほしい」と頼まれた。
タウンゼントは60代半ばの人だった。
こうして「タウンゼント・グリーンスパン」社が誕生した。1953年秋のことだ。
(※26歳の者が、60代の経営者と出会い、いきなり同格の経営者として招かれるだろうか?
何か裏事情がありそうだ。)
われわれの調査分析は、経済動向がどう顧客の事業に影響するかだった。
多くの鉄鋼メーカーを顧客をしたが、日本や欧州から高品質で安価な鉄鋼が輸入され、鉄鋼メーカーが米産業の花形だった時代は終わりを告げようとしていた。
1971年8月にニクソン大統領は、賃金と物価の統制を発表した。
CEA(大統領経済諮問委員会)の委員だったスタインから、電話でこのことを私は事前に知らされた。
(※こういう事からインサイダー取引が行われ、大儲けする者が出る。この時にグリーンスパンがしたかは知らないが。)
物価統制は、激しいインフレを抑えるためとされたが、問題があちこちで起きて、2年で撤回された。
この政策の責任者だったラムズフェルドから、「どうすればよいか」と相談され、「簡単だ、価格を上げればいい」と私は答えた。
1973年の石油ショックで、インフレと失業率はさらに悪化した。
さらに政治スキャンダルのウォーターゲート事件も起きた。
私はニクソン政権のサイモン財務長官から、CEA委員長になっていたスタインが辞任するから、後任を引き受けてほしいと言われた。
だがニクソン大統領を信頼できないので、辞退した。
しかしヘイグ大統領首席補佐官と、恩師のアーサー・バーンズFRB議長からも頼まれたので、引き受けることにした。
1974年9月に私は就任したが、大統領は(ニクソンが辞任したので、副大統領だった)フォードに代わっていた。
私がCEA委員長として行った仕事は、議会に提出される法案の経済的な矛盾を明らかにすることだった。
つまり、バカげたアイディアを叩き潰すのである。
景気後退が深刻化したので、景気対策として1回限りの戻し減税をした。
経済にむやみに介入しない点で、私とフォード大統領は一致していた。
景気は1975年の半ばに回復し始めて、我々も一息付いた。
1976年の大統領選挙がたけなわの頃、景気が突然に減速した。
これがフォード政権の批判材料に使われた。
そして対抗馬のカーターが勝利して、大統領になった。
カーター政権になると、私はタウンゼント・グリーンスパン社に復帰したが、社外取締役になってほしいとの依頼が増えた。
(※米国では、政府高官になった者が民間企業に戻り、それからまた政府高官になるといった形で、政府と一部企業の癒着が常態化している)
私は、J・P・モルガンやアルコアの社外取締役になった。
この頃の私は、ニュースキャスターのバーバラ・ウォルターズと交際していた。
交際は数年続いた。
一方、FRB議長に就任したボルカーは、通貨供給量を抑えてインフレを退治しようとした。
引き締めで金利が急上昇し、景気は落ち込み、失業者も増えたが、インフレは徐々に低下した。
1980年の大統領選挙では、共和党のレーガン候補の応援に、私は参加した。
レーガンの政策は、私のそれと非常に近かった。
レーガンが大統領になると、さっそく政府の歳出縮小と減税に向けて動き出した。
私は、レーガンに経済政策を助言するチームに加わった。
シュルツ財務長官、経済学者のミルトン・フリードマンや、アーサー・バーンズ元FRB議長もチームのメンバーだった。
結局、レーガン政権の経済政策は、議会が歳出削減を阻む中で、減税だけされたので、財政赤字が拡大した。
2ケタの金利が続いていたので、FRBは批判されていた。
だが「FRBに圧力はかけてはだめです」と、私はレーガンに助言し続けた。
政府とFRBの対立はマイナスになると思ったからだ。
その後、公的年金の改革をする委員会の責任者に、私は指名された。
この委員会の会議を下敷きに、1983年に法律が成立した。
レーガン政権の2期目に入ると、私は本業の経済分析の仕事に戻った。
ところがジェームズ・ベーカー財務長官から電話があった。
ベーカーは、私がフォード政権でCEAの委員長をしていた時に、商務次官をしていて、その頃からの友人だった。
彼の電話は、「ボルカーFRB議長が辞めたら、その後を継いでくれないか」との依頼だった。
私はOKと答えた。
1987年8月に、私はFRB議長に就任した。
幸い、2千人の職員を管理するのは理事の仕事で、私は好きな経済分析に集中できた。
とはいえ、連邦公開市場委員会(FOMC)の会合があり、手順や投票のやり方を勉強した。
1987年8月のFOMCの会合の時、株式市場が大上昇していたし、財政赤字が膨らむ中でドルは下落していた。
だから私は、政策金利であるフェデラルファンド(FF)金利を引き上げるべきと感じた。
だがそれまでの3年間、利上げはされておらず、私たちは様子見を決めて、利上げをせずに会場を後にした。
株価は10月に入って大きく下落し、史上最大の下落幅を記録したブラックマンデーまで起きてしまった。
(※つまり大ミスをしたのである)
何がこの大暴落を引き起こしたのか。
私は単なる市場のリズムの表れだと思う。
バブルは起きるものだ。
それを予測したり、取り除いたりするのは不可能なのだ。
(※責任を取りたくないための、誰がどんな事をしても変わりはなかったという、よく使われる言い訳の詭弁である)
1988年3月に政策金利の誘導目標を引き上げて、8月には公定歩合も引き上げた。
ブッシュ副大統領が、次の大統領選挙に出馬すると決めると、ベーカー財務長官は辞任して、「ブッシュ候補の選挙運動の責任者になる」と発表した。
ベーカーに公定歩合の0.5%引き上げを伝えると、選挙戦に不利になると思ったようで、思いつく限りの怒りの言葉をぶつけてきた。
(※その後、ブッシュは大統領選挙に勝ち、グリーンスパンはFRB議長を続けた。)
(2024年6月28~30日に作成)