(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ3』から抜粋)
ロナルド・レーガン政権は、イランとイラクが行っている戦争に介入し、イランにもイラクにも支援をした。
(※イランへの支援は、議会の承認を受けていない違法なもので、イラン・コントラ・ゲートと呼ばれるスキャンダルに発展することになった)
イラクは化学兵器を使用していたが、1984年3月にイラクを訪問したドナルド・ラムズフェルド特使は、こう伝えた。
「アメリカはイランの打倒を優先しており、化学兵器の使用を罰するつもりはない」
当時にNSC(国家安全保障会議)のイラク問題担当の顧問をしていたハワード・タイシャーは、こう証言する。
「アメリカ政府は、イラクに10億ドル単位で資金援助し、軍事機密情報を提供していた。
イラクに武器を売却する第三国と緊密に連絡し、イラクが武器を確実に入手できるようにした。
60人を超えるDIA(国防情報局)の職員が、戦争計画の策定で協力していた。
さらに、ウィリアム・ケーシーCIA長官はチリの企業を使って、クラスター爆弾を提供していた。」
何社かのアメリカ企業は、イラクに炭疽菌を販売した。
これが後に、生物兵器の製造に使われたのだ。
アメリカ企業は、化学兵器に転用可能な殺虫剤を販売している。
こうした動きを察知したイランは、国連安保理に調査を求めた。
イランの訴えは正当で、しばらくするとアメリカ政府はイラクの化学兵器使用を批判し始めた。
1984年11月に、アメリカはイラクとの国交を正常化した。
結局、イラン・イラク戦争が終わるまで、イラクの化学兵器使用は止まらなかった。
イラクのサダム・フセイン政権は、87年になると自国のクルド人に対しても化学兵器を使用した。
だがアメリカ政府は、88年12月にダウ・ケミカル社による150万ドル分の殺虫剤のイラクへの販売を許可した。
ダウ・ケミカル社は、ベトナム戦争で使用されたナパーム弾を製造したメーカーでもある。
イラン指導者のホメイニーは、化学兵器を使うイラク軍と、それを支援するアメリカに怒っていた。
ホメイニーは、1979年に権力を奪取すると、それまでイラン国王が進めていた核兵器の開発を「反イスラム的」と言って停止した。
だが、イラン・イラク戦争が始まると、84年に開発を再開した。
(2015.7.25.)