パリ講和会議(1919年)

(『早わかり世界近現代史』から抜粋)

1918年1月に、ウッドロウ・ウィルソン大統領は、「秘密外交の廃止」「軍備縮小」「民族自決」「国際連盟の設立」などを盛り込んだ、『14ヵ条の平和原則』を提唱した。

第一次世界大戦が終結すると、1919年1月に、『パリ講和会議』が開催された。

会議には、敗戦国の代表やソ連は招かれず、戦勝国側の27カ国の参加だけが認められた。

米・英・仏・伊・日本の5ヵ国が、最高会議を構成して、会議の主導権を握った。

ウッドロウ・ウィルソンの唱えた14ヵ条は、英仏の反対により、「国際連盟の設立」以外は実現しなかった。

会議では、世界大戦を起こした責任はすべて敗戦国に押し付けられ、戦勝国の利益のみが追求された。

大戦中にドイツとの戦いで没落してしまったフランスは、ドイツに報復しようとし、ドイツに苛烈な制裁を求めた。

その結果ドイツは、「全ての植民地の放棄」「鉄鉱石の9割を産出していたアルザス・ロレーヌ地方を、フランスへ割譲すること」「石炭の宝庫であるザール地方を、国際連盟に移譲すること」「領土の13%の割譲」「巨額な賠償金(1332億金マルク)」「陸軍を10万人、軍艦を10万トンに制限すること」が、決定した。

講和条約の『ヴェルサイユ条約』が締結されて、「ドイツへの苛酷な制裁」と「ソ連と共産主義革命を食い止めること」が確定した。

この新しく出来たヨーロッパの秩序を、『ヴェルサイユ体制』と言う。

ポーランドは独立を得たが、この結果ドイツは自国領の「東プロイセン」が飛び地になってしまった。

(ドイツ人が多く住む土地の一部が、ポーランド領になってしまったため、ドイツ領が2つに分かれてしまった)

この事が、ドイツ人の誇りを傷つけてしまい、後にナチスがポーランド侵攻を行った際に、ドイツ国民がそれを支持する要因になった。

(2013.6.16.)

(『総図解世界史』から抜粋)

第一次世界大戦で戦勝国となった、米・英・仏・伊・日の5大国は、1919年1月28日からフランスのヴェルサイユで、講和会議を開いた。

会議では、実力不足のイタリアと、アジアの権益以外には発言しないため「サイレント・パートナー」と呼ばれた日本が外されて、米・英・仏でほとんどが決められた。

理念を先行させるアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の主張は、「宣教師外交」と称された。

ウッドロウは、「世界に民主主義を広める」と言って、ドイツの国家体制の変革を要求した。

ウッドロウが『14ヵ条の平和原則』で主張した「民族自決」は、少数民族の独立運動を起こさせることで、オーストリア帝国とオスマントルコ帝国を解体させる意図があった。

この主張は、結局は暴力による独立を肯定する事に至り、各地で民族紛争が起きることになった。

同じく14ヵ条で主張した「秘密外交の廃止」は、イギリスの外交と戦後秩序の構想を全否定するものだった。

「航海自由の原則」も、イギリスの覇権への挑戦だった。

(2013.7.10.)


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