(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
ウッドロウ・ウィルソン大統領は、1918年1月8日に、第一次世界大戦の講和会議に向けて『14ヵ条の平和原則』を発表した。
10月30日にドイツは、この14ヵ条に基づく講和を求めた。
しかし、ウッドロウはドイツに対して体制の変革をせまり、ドイツ国内では兵士の反乱からドイツ革命が広がった。
18年11月9日には、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が退位した。
そして、11月11日に『休戦協定』が成立した。
1919年1月18日から、第一次世界大戦の戦後処理を決める『パリ講和会議』がスタートした。
戦勝国の英仏は、ドイツへの懲罰(過酷な処分)を決意していた。
一方、ロシアに発した共産主義は、東欧に広がる様子を見せていた。
アジアとアフリカでは、独立運動が起きていた。
こうした状況のため、米英仏などにとっては、急いで世界秩序を形成する必要があった。
パリ講和会議での重要な決定は、英・仏・米・伊・日の5ヵ国会議と、英・米・仏の3ヵ国の秘密会議でなされた。
14ヵ条の平和原則で謳われた「公開外交」は、無視された。
ウッドロウ・ウィルソンは、ドイツへの過酷な賠償に反対したが、結局あきらめた。
(ここで決まった過酷な賠償に抵抗するかたちで、ドイツではナチスなどの過激な勢力が台頭してくる事になる)
敗戦国のオーストリア帝国は解体されて、オーストリア、ポーランド、チェコは独立国となった。
オスマン・トルコ帝国も解体された。
参加各国は共に、ソヴィエトの承認を拒否した。
ウッドロウ・ウィルソンが提唱していた『国際連盟』の創設は、成功した。
しかし、ソヴィエト代表を招かなかったため、反ソ的性格となった。
ウッドロウは、1919年7月に帰国した。
アメリカ国民は、平和と正義の確立がなされなかった事に失望していた。
アメリカ上院では、国際連盟への不参加論が盛り上がり、ウッドロウ・ウィルソン大統領は国民の支持を得るために全国遊説に出た。
しかし、途中で病発してしまった。
結局、国際連盟への参加は、米国議会では否決された。
(2013.4.27.)