(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
アメリカと日本は、「日独伊の3国同盟の成立」を境にして、関係が悪化していった。
ローズヴェルト政権は、対日輸出の制限と、中国の蒋介石への援助で、日本に対処した。
1941年2月に日米交渉が始まり、アメリカは日本軍の中国・インドシナからの撤兵を求めた。
日本は日米決戦を決めて、12月に真珠湾を急襲した。
急襲の翌日に、アメリカは日本に宣戦布告をして、4日後には独・伊がアメリカに宣戦布告をした。
こうして、アメリカの正式な参戦が決まった。
ヨーロッパでは、ドイツに対してイギリスは反撃の力を持っておらず、ソ連のみがドイツと戦える唯一の勢力であった。
一方アジアでは、アメリカは自国領のフィリピンを放棄しなければならない状況だった。
アメリカは、ヨーロッパとアジアの二方面で戦う、厳しい状態だった。
1941年8月に、ニューファンドランド沖でローズヴェルト大統領とチャーチル英首相は会談して、『大西洋憲章』を発表した。
アメリカは、イギリスの作ったブロックも含めて、全ての経済ブロックを戦後に開放する事を求めた。
アメリカは、戦後に開放される国々に対して、いち早く貿易を拡大することを目論んでいたのである。
(この当時は、ブロック経済といって、各勢力が自分だけの勢力圏で貿易を行う状態が基本になっていた)
アメリカの基本戦略は、ドイツをまず倒して、その後に日本にあたるものだった。
対ドイツ戦で最大の負担をしたのは、ソ連だった。
43年2月のスターリングラード戦で、ソ連はドイツに勝利し、ようやく連合軍は攻勢へと転じた。
アメリカは、イギリスの逡巡もあり、対ドイツ戦にはなかなか参加しなかった。
アメリカ軍は、42年11月にフランス領の北アフリカに上陸したが、ソ連の戦いぶりとは比較しようもなかった。
(2013.7.24.)