(『世界歴史大系 アメリカ史1』から抜粋)
18世紀には、白人家庭は6~8人の子供をつくった。
アメリカで独立戦争が始まった1775年には、イギリスの13の植民地には250万人が暮らし、そのうち20%が黒人だった。
当時のイギリス(イングランド)の人口は、700万人である。
13のイギリス植民地は、都市人口は少なく、75%が農村人口だった。
都市はすべて、貿易港だった。
マサチューセッツ、コネティカットなどのニュー・イングランド地方は、1700年には9万人の人口だったが、1770年には58万人に増えていた。
このエリアには、ほとんど黒人はいなかった。
主な産業は貿易業で、他には漁業、捕鯨業、木材を切り出しての造船業が行われていた。
ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴァニア、デラウェアでは、農業と貿易業が半々だった。
農業は小麦が主だった。
1700年には5万人の人口だったが、1770年には59万人に増えていた。
ヴァージニア、メリーランドは、タバコ栽培が主で、次は小麦だった。
1700年には11万人の人口だったが、1770年には91万人に増えていた。
ここは黒人がかなり多かった。
ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアは、コメ生産が主で、次に染料になるインディゴ生産だった。
1700年には2万人の人口だったが、1770年には50万人に増えていた。
ここは黒人比率が高く、3割を占めた。
また北米は、1700年代に入ると、ロシア、スウェーデンに次ぐ鉄の生産地になった。
イギリス植民地の政治は、いずれも総督、評議会、代議会で成り立っていた。
総督は、自治植民地以外は大抵、イギリスから赴任してきた。
評議会は、総督に助言する機関で、貴族で占められ、任期は無制限だった。
代議会は、イギリスの下院にならい、立法を行った。
この立法は、本国イギリスの内閣で審議され、認められない場合は却下された。
イギリスと同じく、ある程度の財産を有する者のみが、参政権(選挙権)を得た。
女性には選挙権は無かった。
1745年の時点で、大学はまだ3校しかなかった。
大学は当初は聖職者の養成を目的としていた。
その一方で、初等教育用の学校が各地でつくられ、白人男性の識字率は革命時には70%に達していた。
1764年には、21の新聞があった。
植民地時代のアメリカには、ほとんど文学作品は無い。
この時代の文化活動で重要なのは、1743年にベンジャミン・フランクリンらが設立した「アメリカ哲学協会」である。
この活動により、協会のあるフィラデルフィアが北米一の文化中心地になった。
(2020年4月3日に作成)