(『世界歴史大系 アメリカ史1』から抜粋)
イギリスとフランスは、北米で勢力争いをし、イギリスが勝った。
フランスは1763年に北米から撤退し、イギリスとスペインで分け合う条約が結ばれた。
1763年10月にイギリスは、アパラチア山脈を境に西の土地をインディアン保留地にし、白人の進出を禁じた。
アメリカに住む白人達は、フランスの脅威がなくなったため強気になり、この政策を不服とした。
アメリカではイギリス本国に比べて税が安かったが、イギリス政府は支配地が増えたのを機に税額を高くしようと考え、実行した。
この政策も、アメリカに住む白人達に不満を与えた。
アメリカの港では、イギリスへの不満の現れとして、イギリス商品の輸入禁止の運動が広まった。
これを見たイギリス政府(王室)は、影響力を強めようといくつかの法律を施行した。
危機感を高めたアメリカの白人達は、各植民地の代表を集めて会議を開くことにし、「第1回の大陸会議」が1774年9月から50日にわたって開催された。
この会議で、イギリス政府から押し付けられた法律は認めず、立法は自分たちでする事を決めた。
さらに、イギリス軍のアメリカからの撤退も要求する事にした。
これが認められるまでは、イギリスとは輸出入はしない事を決定した。
アメリカがイギリス帝国に対抗できたのは、自給自足ができる状態になっていた事、住民のほとんどが武器を持っていた事、イギリス軍がアメリカに8千人しか駐留していなかった事、が挙げられる。
1775年4月19日に、マサチューセッツでアメリカ独立派とイギリス軍が戦闘を始めた。
翌5月には、第2回の大陸会議が開かれて、全植民地がイギリス軍と戦うのを決定した。
大陸会議は常設の機関となり、事実上の連邦政府になった。
イギリス側に付くアメリカ人もいたが、少数だった。
だがこの時点では、アメリカの白人達はイギリス王への忠誠はまだ認めていて、イギリス政府から独立した政府をイギリス王の下で創るという方向性だった。
75年6月に、ヴァージニアのジョージ・ワシントンが、アメリカ軍の総司令官に任命された。
他の将軍たちも任命された。
ヴァージニアは、人口と土地面積が連邦の中で最大で、連邦の中心になっていた。
そして独立派が多かった。
76年1月に、トーマス・ペインの著作「コモン・センス」が刊行された。
この本は、当時の北米の白人人口が200万人だったのに、12万部も売れる大ベストセラーになった。
その内容は、「イギリス王室はなんら尊くなく、アメリカは完全にイギリスから独立するべきである。その方が多くの国と貿易でき、経済的にも良い」というものである。
76年4月に、大陸会議は「イギリス以外の全ての国と貿易する」と決めた。
イギリス経由での貿易をしないと決めたのである。
(※それまではイギリス経由で貿易することが、イギリス政府から義務づけられていた)
1776年6月に、ヴァージニアは大陸会議に独立を提案した。
だが反対意見も多く、独立宣言などの草案を作る委員の任命にとどめた。
76年7月に、ヴァージニアは州としての独立を宣言した。
憲法も制定した。
トーマス・ジェファソンは、独立宣言を起草した。
大陸会議は、この草案をかなり修正してから、『アメリカ独立宣言』として7月4日に採択した。
独立宣言と共に、共和政体を採ると決定された。
イギリスは制定法と慣習法による不文憲法(憲法なし)で来たが、アメリカは憲法の制定も決めた。
トーマス・ジェファソンは、独立戦争中はヴァージニア州の知事を務めた。
彼は、ヴァージニアの大プランターを経営する人物で、奴隷制度を批判して奴隷を小作人に変える構想を持っていたが、結局は実行しなかった。
だが奴隷に家族生活をさせ、良い生活を与えた。
アメリカで採用された「三権分立」は、シャルル・モンテスキューが生み出したものある。
その考えは、権力の集中を廃して、権力を均衡させるというのが基本理念である。
アメリカ新政府の指導層は、イギリスの二院制について、上院議員に貴族しかなれない点は否定したが、知識層を上院議員にする事は有用だとの考えで一致した。
一院制では立法が力を持ちすぎると考えた。
1777年に、『連合規約』が採択された。
ここでは「ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ(アメリカ大陸の連合した州)」を独立国とし、自由、主権を有する州の永久的な同盟と規定した。
宣戦と講和など外交についての権限は、大陸会議を「連合会議」に改めて、そこに与えた。
連合会議には、徴税などの権限は認めなかった。
アメリカ革命の当時は、ほとんどがプロテスタントで、おおむね他の宗教に寛容だった。
とにかく神を信じるというのが大前提で、それによってアメリカの秩序は保たれると皆が考えていた。
革命当時の新聞は、週1回の発行が普通で、ページ数は4ページ程度だった。
まだ大陸会議だった頃に、同会議はフランスの援助を受けたいと考えて、交渉を行った。
この時はフランスは様子見をした。
その後、アメリカが善戦するのを見たフランスは、1778年2月に条約を結んだ。
この条約では、フランスは北米に植民地を造らないとし、お互いの領土と独立を守るとした。
フランスは、イギリスと争っており、イギリスを弱体化させるアメリカの独立を支持したのである。
79年にはスペインも、アメリカと同盟を結んだ。
しかしスペインは、自国のアメリカ領が脅かされるのを警戒していた。
1780年まではイギリス軍も強かったが、81年になるとアメリカ連合軍が圧倒した。
そして82年4月に米英の講和交渉が始まった。
11月に仮の講和条約が結ばれたが、アメリカはミシシッピ川までの西方領土を獲得するなど、アメリカに有利な内容だった。
イギリスは、アメリカに有利な条件を出すことで、講和後にアメリカと友好的に貿易してゆけるのを狙っていた。
結果的には、独立後もアメリカは主要な貿易相手にイギリスを選び、狙いは成功した。
講和条約は、83年9月に正式に調印された。
ジョージ・ワシントンは、独立戦争を通して英雄となり、望めば独裁者になる事もできたが、共和主義者だからそれをしなかった。
講和後に、イギリスはアメリカにまとまりが無いのを見て、アメリカ製品に高い関税をかけるなど、不利な状況にもっていった。
講和の時点で、イギリス側についた人々の大半はアメリカを去った。
その数は6~10万人。
この結果、アメリカは共和政体が確定した。
アメリカ革命後、ほとんどの植民地にあった長子相続制度が、1798年までに全廃された。
選挙制度も普及し、改選も数多く行われるようになった。
選挙では、かつては投票の基準が家柄や教育や財産だったが、革命で上流階級と戦ったために意識が変わり、政策や人柄が重視されるようになった。
革命により奴隷制の廃止も進み、1800年までにデラウェアをのぞく北部・中部で廃止が決まった。
南部では奴隷制が続いた。
奴隷の外国からの輸入は、禁止が決められたが、独立戦争中にイギリス軍に多くの奴隷を連れ去られたサウスカロライナの要望で、20年の猶予期間がついた。
(2020年4月3日に作成)