(以下は『人物アメリカ史(上)』ロデリック・ナッシュ著から抜粋)
クリストファー・コロンブスは、ジェノヴァ共和国にて織工(織物をつくる人)の息子として、1451年に生まれた。
西ヨーロッパでは13世紀の末に、中国や日本に旅行したマルコ・ポーロの報告(著書)が伝えられ(広まり)、コロンブスもマルコ・ポーロの著書を入手した。
コロンブスはこの本のうち、「日本の王の宮殿は全て純金で屋根を葺いてある」という記述に特に注目した。
当時は、東地中海にあるコンスタンチノープルやアレキサンドリアという大きな港から、全ヨーロッパに向けてアジア製の商品が輸出されていた。
ところが1453年にコンスタンチノープルはトルコ人(オスマントルコ帝国)に占領され、キリスト教の国々(ヨーロッパ諸国)は東方(アジア)との交易の要が失われた。
そこで別の海路で東方と交易することが模索された。
コロンブスの時代は、「ルネッサンス」の影響も大きかった。
ルネッサンスとは再生の意味である。
ヨーロッパは長くキリスト教に支配されていたが、もっと前のギリシャやローマの時代の文化が見直され、人々の意識や価値観が変わった。
キリスト教(カトリック派)は死後や来世を説き、人間は無価値で無力と説いたが、ルネッサンスにより個人主義や現世主義が花開き、それが資本主義の発達の好餌となった。
コロンブスは、20代前半は平凡な水夫として過ごしたが、1476年にジェノヴァの大船団の一員としてポルトガル経由でイギリスを目指す交易に出た。
ところがジルラルタル海峡の外側に着いた時、フランスとポルトガルの艦隊に襲われた。
コロンブスの乗る船は沈没し、彼はポルトガルの南岸に流れ着いた。
傷を負った彼は半年足らずそこで療養し、回復するとまた水夫となった。
ちなみに当時のポルトガルは、ヨーロッパで1番の海洋航海術を持ち、遠征隊を各地に送り出していた。
ポルトガルはアストロラーベ(天体観測儀)を改良して、星の観測でかなり正確に経度を知ることができた。
そしてアフリカ航路を開拓して、奴隷貿易で大儲けした。
コロンブスは次の数年間は、ラテン語とスペイン語を学び、ポルトガル人の名門の娘と結婚して、船長に出世した。
その後に約1年間、マデイラ諸島に住んだ。
(※マデイラ諸島はポルトガルの南西にあり、位置的にはアフリカにあると言える)
マデイラ諸島に住んでいた時に、彼は西方(中南米)から流れ着く巨大な流木を目にしたが、その中には彫刻の入った木もあった。
それだけではなく、ヨーロッパ人とは異なる扁平な顔の死体が二体、浜に打ち上げられたのも目撃した。
1480年代の初めにコロンブスは、西アフリカを航海して、ギニアとゴールド・コーストまで行った。
コロンブスは、ヨーロッパから西に航海すると人の住む地があり、それはインドであると信じようになった。
そして航海経験から、カナリア諸島(※マデイラ諸島の南にある)の南では常に風が東から西へ吹くので、その風に乗って西に行き、帰りは北上して西から東に吹く風に乗ればいいと考えた。
コロンブスは、この世界は丸いという知識も持っていた。
すでにヨーロッパでは、このことが議論されていた。
彼の蔵書には、1480年に出版された地理書『イマーゴ・ムンディ』があった。
これを熟読し、ほぼ毎ページの欄外に覚え書きを記した。その1つとして、「スペインとインドの間には挟い海があり、数日で航海できる」と書いている。
1481年頃に彼は、有名な学者であるパウロ・トスカネルリに手紙を出して質問した。
トスカネルリの返書には、こうある。
「あなたの提案する航海は可能であり、確実であり、大きな収穫と至上の名声をもたらすでしょう。」
この返書には地図もそえられていて、コロンブスはその地図を使ってポルトガルと日本の距離を3千マイルと計算した。
これは実際の距離からは9200マイルも少なかった。
トスカネルリによると、ポルトガルと日本の間には大洋しかなく、大陸はなかった。
当時のヨーロッパ人は、アメリカ大陸を知らなかったのである。
これよりずっと前、6世紀ごろから、アイルランド人とヴァイキングは北米に行っていたのだが、それはヨーロッパ大陸で知られてなかった。
コロンブスが西にある未知の土地を目指したのは、キリスト教の神話、特に地上の楽園の話を信じていたのも大きかった。
キリスト教の聖書にはエデンの園の話があり、そこから楽園伝説が生まれた。
世界のどこかに楽園があり、そこでは心配や不快はなくなり、人は不死になるという伝説である。
まだ未知の地が多く残っていた当時、こうした神話を信じることは容易であった。
楽園を求めて西へ行くという思想は、コロンブスのはるか前からあった。
すでにギリシャ時代に、アトランティス大陸、極楽島、美女の島などの伝説が語られている。
6世紀に、聖ブレンダンというアイルランド人の僧が、西へ航海して、現在のフロリダ州に着いたという伝説もある。
前述の地理書『イマーゴ・ムンディ』にも、「地上の楽園は至福の地で...陸と海によって我々の世界から遠く隔てられている」と書いてある。
西へ航海することを決意したコロンブスは、スポンサーを探し始め、まずポルトガル王のジョアン2世に打診した。
1484年の末、ジョアン2世の顧問委員会はコロンブスの計画を聞いたが、疑いを持った。
彼らは、「あなたは日本や中国までの距離を3千マイルと言うが、正しくは1万マイルだろう」と言って否定した。
このころポルトガル王国は、アフリカ大陸を廻ってインドに至る航路を開きつつあった。
1488年にバーソロミュー・ディアス(バルトロメウ・ディアス)が、この航路に成功してリスボンに戻ってきた。
その様子をコロンブスは羨望といら立ちの混じった気持ちで眺めた。
コロンブスは、ポルトガル王は自分の提案する航路を必要としていないと悟った。
そこで弟をイギリスのヘンリー7世とフランスのシャルル8世の宮廷へ送り、宣伝させた。
彼自身はスペインの宮廷へ行き、自身の計画を宣伝した。
コロンブスはスペイン王に対し、自分の計画を後援する条件として、次の4つを要求した。
①完全装備の船を3隻、用意する
②発見した宝の10分の1は私がもらう
③発見した土地の総督と副王に私を任命する
④私に大洋提督の称号を与え、貴族に加える
コロンブスの出した条件は高かったが、スペイン王室の財務官をするルイス・デ・サンタンヘルは、コロンブスの話に魅力を感じた。
当時のスペイン王室は、1492年1月1日にムーア人(イスラム教徒)が最後の拠点としていたグラナダまで陥落させて、ムーア人の脅威が無くなり余裕が生まれていた。
1492年4月17日に、スペインのフェルナンド王とイサベル女王は、コロンブスの出した条件を飲み契約した。
用善された3隻のうち2隻は、カラベラ船だった。
この船は軽量で狭いが、船足は速く遠洋航海用に設計されていた。
コロンブスの乗る旗艦は、これよりも長大で速度は遅かった。
1492年の8月3日、コロンブスは90人の男たちを率いて3隻の船団でパロスの港から出発した。
船団はカナリア諸島へ向って南西に進み、その後は西へ向きを変えた。
10月12日の朝、ついに陸地が見えた。カリブ海の島に着いたのである。
コロンブスは上陸すると、(住民がいたのに)島の領有権を宣言し、サン・サルバドール島と名付けた。
これは彼の絶頂の瞬間であったが、この後は挫折の連続となる。
コロンブスは島の住民たちについて、「裸で非常に体格が良く、立派な肉体と美しい顔立ち」と書いている。
この人々は、わずか1世紀前にカリブ海の島々を占領した人達で、南米から来て先住民を征服した。
実は、コロンブスは初めてこの地を訪れたヨーロッパ人ではなかった。
アメリカ大陸で見つかった紀元前1000年くらいに石に刻まれた銘には、ケルト人、バスク人、リビア人、エジプト人のそれぞれの文字がある。
それほどに多様な人が来ていた。
コロンブスは、着いた場所がインドだと思ったので、島の住民を「インディアン(インド人)」と呼んだ。
彼は住民たちを劣等な存在と見たので、果実や小鳥の標本と一緒に7人の住民も標本として連行することにした。
つまり奴隷にしたのである。
彼は日記にこう書いている。
「住民たちは非常に武装が下手で、こちらに武装兵が50人いれば彼らを1人残らず服従させられるだろう」
これは残忍な予言となった。
彼は2度目の渡米の時にこれを実行した。
インディアンが金の装飾品を身に付けていたことから、コロンブスは日本(黄金の国ジパング)は近いと信じた。
コロンブスたちは住民の案内でキューバへと進んだ。
だがキューバにも黄金の国はなかった。
彼らが次に到着したヒスパニオラ島は、住民がかなりの金を持っていた。
そして住民は奥地に豊かな金鉱があると語った。
ちょうどこの頃、1492年の12月25日に、コロンブスの乗っていた旗艦が岩礁で座礁して使えなくなった。
そこでコロンブスはヒスパニオラ島に植民地の建設を決め、それをナビダードと命名し、50名の男を残すことにした。
1493年1月16日にコロンブスらを乗せた2隻の船は、帰途についた。
そして3月4日にポルトガルのリスボンに帰り着いた。
コロンブスの報告は人々の興奮を巻き起こし、彼の発見した陸地はアジアなのか、新しい大陸なのかと、人々は論じ合った。
コロンブスはバルセロナの宮廷に行き、フェルナンド王とイサベル女王に持ち帰ったものを見せ、連行してきたインディアンも見せた。
1493年5月4日にローマ教皇の勅書が出て、アゾレス諸島の西100リーグに分界線が定められて、コロンブスの見つけた土地はスペイン領としてスペインが植民する独占権が与えられた。
コロンブスは1493年9月25日に、17隻の船と1200~1500人ほどの男たちを率いて、再びアメリカ大陸へ向かった。
到着すると前回よりも大がかりな探索が行われたが、得られた黄金は少なかった。
コロンブスたちは、リーワード諸島では食人種と戦争し、彼らを奴隷して女たちは性欲の対象にもした。
コロンブスがナビダード植民地に戻ってみると、残留したスペイン人50人は殺されるか連行されるかしていて、誰も居なかった。
コロンブスは新たな植民地をつくろうとしたが、部下たちは乗り気でなかった。
インドやアフリカに行ったヨーロッパ人は、現地の人と交易して買った品をヨーロッパに持ち帰れば大儲けできた。
だがカリブ海や北米は、住民は質素な暮らしで、交易品は無かった。
そこでコロンブスは、スペイン王室への報告書に「町や村の建設に非常に適した、豊かなで肥沃な土地であります」と書き、植民をうながしている。
だがここから1世紀以上も、植民はほとんど行われなかった。
今回のコロンブスは、住民(インディアン)との全面戦争を始めた。
キリスト教の信者にして言うことを聞かせるという策略は、インディアンには効かなかった。それを見て殺すことにしたのである。
1494~96年の2年間に、ヒスパニオラ島に住む30万人の人々は、3分の1が殺され、残りは奴隷にさせられて金鉱で強制労働させられた。
この50年後にインディアンが500人まで減るほどに、残虐な事が行われ続けた。
ついにインディアンは絶減したが、アフリカから連行されて来た奴隷が代わりに働かされた。
1498年と1502年に、コロンブスは再びアメリカへ遠征隊を率いて向かった。
だが彼の権威は落ち、逮捕されて鎖につながれてスペインへ送り返された事もあった。最後には総督の地位も失った。
1498年の遠征・探険の時、(現在のベネズエラに到達し、オリノコ川の)河口において海外線からはるか遠くまで海水ではなく真水になっている事をコロンブスは発見した。
彼は川の水量が多いので海水の塩分を圧倒している現象だと考えたが、これは正しかった。
これほどの水量の大河は巨大な陸地からしか生まれないことを、彼は経験から知っていた。
彼はここが巨大な未知の大陸、アジア大陸ではない別の大陸だと認めざるを得なかった。
スペインのイサベル女王が1504年の末に死去すると、スペイン宮廷でコロンブスを支援する者はいなくなり、コロンブス自身も1506年5月20日に亡くなった。
だが彼の権威は落ち、逮捕されて鎖につながれてスペインへ送り返された事もあった。最後には総督の地位も失った。
1498年の遠征・探険の時、(現在のベネズエラに到達し、オリノコ川の)河口において海外線からはるか遠くまで海水ではなく真水になっている事をコロンブスは発見した。
コロンブスの死後、数年目にドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼミューラーは著書において、 アメリカ大陸の発見者としてペテン師のアメリゴ・ヴェスプッチの名を記した。
この誤記により、ヨーロッパ人はコロンブスが探索した大陸を指す言葉として「アメリカ」を使うようになった。
(以上は2026年1月28日に作成)