フランクリンの生涯
イギリスの暴政とアメリカの独立

(以下は『人物アメリカ史(上)』ロデリック・ナッシュ著から抜粋)

ベンジャミン・フランクリンは1706年に、アメリカ大陸にあるイギリスの植民地マサチューセッツのボストンで生まれた。

彼の父ジョサイアはイングランド生まれのイギリス人だが、国王が英国国教(イングランド国教)を信じるよう人々に強制することに不満を持った。

ジョサイアは英国国教会に反対する人々の非合法な会合に出席し始めたが、1683年にイングランドを捨ててアメリカ大陸にある植民地に移住をした。

ジョサイアは渡米すると、ボストンに住み、石けんと蝋燭の店を始めた。

当時のアメリカ白人社会は、植民のための働き手を増やす目的で、大家族を奨励していた。

それでジョサイアも最初の妻との間に7人の子を、2番目の妻との間に10人の子をつくった。

ベンジャミンは、2人目の妻が産んだ末子である。

ジョサイアは、末子のベンジャミンが聖職者になることを求め、ベンジャミンに読み書きの教えを受けさせた。

当時のアメリカやイギリスでは、読み書きができるのは贅沢なことで、この能力はベンジャミンが出世する力となった。

ベンジャミンは8歳になると、ボストン・グラマー・スクールに入学した。
だが親に授業料を支払い続ける経済力がなく、途中で退学となった。

10歳で働くことになり、家業の石けんと蝋燭作りを手伝い始めたベンジャミンだが、すぐに嫌気がさした。

反抗し始めたベンジャミンに対し、父は働き先を変えることにし、自分の兄ジェームズの印刷店に入れた。

ベンジャミンに印刷屋は合っていて、彼は読書に熱中し、日刊紙『スペクテイター』の文体を真似し始めた。
同紙のエッセイをノートにとっては自分の言葉で再構成し、元の文章と比較してみて文章力を鍛えた。

ベンジャミンは、日曜日に家族が教会に礼拝する時間も、印刷屋に残って読み書きに耽った。

ここでベンジャミン・フランクリンが生まれる前の状況を述べる。

ニュー・イングランド(アメリカ大陸のイギリス植民地)の商人たちは、金稼ぎを最優先にしたので、マサチューセッツ湾植民地の政治を支配するピューリタンの教会に不満を持った。

商人たちは厳格なピューリタニズムにたてついた。

このことは1630年代ではアン・ハッチンソンを支持することにつながったが、40年後にはイギリスの国王チャールズ2世が任命した貿易委員会(ローズ・オブ・トレイド)とその機関の手先である植民地総督エドワード・ランドルフの支持に至った。

こうして1684年に、かつてジョン・ウインスロップが死力を尽くして擁護した「マサチューセッツ特許状」が取り消された。

多くの商人は、経済的自由(金稼ぎ)を取って、精神的純粋さや政治的自治を捨てたのである。

1680年代の末に、イギリスの植民地は再編成され、「ニュー・イングランド王領」と呼ばれる制度となり、ニュージャージー以北の全ての植民地がイギリス国王の任命する総督の下に置かれた。

植民地の代議制議会は停止されたが、商人たちはピューリタン政治よりも金稼ぎがしやすいと歓迎した。

だが1688年にイングランドでジェームズ2世に対する革命が起きると、ボストンの人々はニュー・イングランド王領の総督であるエドマンド・アンドロスを投獄した。

3年後、マサチュセーツ湾植民地は新しい特許状を受け取ったが、それはピューリンタン方式の政府と王領制の妥協であった。
つまり信仰心ではなく、財産の有無が参政権の基準となったのである。

ベンジャミン・フランクリンの住むボストンは、1720年には人口が1万人を超え、海運業により大英帝国で最も忙しい港の1つとなった。

ベンジャミンの親方である叔父のジェームズ・フランクリンは、『ニューイングランド・クーラント』という新聞を発行していたが、ベンジャミンはここにペンネールを使って記事を書いた。

彼の記事が植民地政府の政治を批判し、「偽善者」と評したので、経営者のジェームズは1722年の6月に逮捕され、投獄された。

ジェームズが獄中にいた1ヶ月の間、ベンジャミンが新聞を発行し続けた。

ニューイングランド・クーラント紙の論調が変わらないので、1723年1月に総会(ジェネラル・コート)は新聞発行をジェームズに命じた。

彼らはめげず、クーラント紙は名義人をベンジャミンに変更して発行を続けた。

ところがジェームズとベンジャミンは、喧嘩をくり返すようになった。
何度かの殴り合いの末、 ベンジャミンは他の印刷所に移籍することにした。

ボストンの印刷職人の組合(ギルド)は保守的で、親方と揉めて辞めたベンジャミンを雇おうとする者はいなかった。

そこで17歳のベンジャミンは、1723年秋にニューヨークに印刷の仕事があるという噂を頼りに、ニューヨークに向かった。

だが当時のニューヨークは、イギリスの植民地だったが、封建的な大土地所有者が新たな入植者を阻んでいた。

仕方なくベンジャミンは、フィラデルフィアに行き先を変えた。

フィラデルフィアは、ペンシルヴァニア植民地を代表する都市で、北米で最も活気のある植民地の1つだった。

この植民地の創設者はウィリアム・ペンで、イギリス海軍の提督の子として生まれ、チャールズ2世からデラウェア川より西の広大な地域の特許状をもらった。

その地域は「ペンの森」、すなわち「ペンシルヴァニア」と呼ばれるようになった。

ウィリアム・ペンはクェーカー教徒と呼ばれる、急進的なキリスト教プロテスタント派の人で、自由で寛容な植民地をつくった。

だから多くの移民がここに集まり、アメリカ大陸でも最も肥沃なこの地を占領していった。

ペンは1701年に、住民が求めたので代議制の議会を開設した。

彼はさらに、5エーカーの森を切り開くごとに1エーカーの樹木を保存する法律を作ったが、これは自然保護の政策として先覚的だった。

フィラデルフィアの先進的な政治は、ベンジャミン・フランクリンに合っていて、1723に彼はこの地の印刷屋で職を得た。

1724~26年に彼は、イギリスのロンドンに行って暮らし、王室協会の会員たちと交際した。
(※フィラデルフィア移住の翌年に、まだ10代の彼がいきなり留学できた理由は不明。ウィキペディアを見たら知事の勧めがあったと書いている。
なぜ知事と知り合えたのだろうか?そして旅費は誰が出したのか?)

イギリスから帰国後、フランクリンは1727年にフィラデルフィアで、「ジャントゥ」というクラブを創立し、様々な事業を手がけ始めた。

図書館、消防団、外灯会社、道路の舗装といった事業である。

24歳(1730年)の時に、自分の印刷所と新聞を始めた。

(※ウィキペディアによると1729年に彼は、植民地時代にもっとも読まれていた『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収したとのこと。

彼の経歴を見ると、フィラデルフィアに移住した直後に特別な人脈ができたと考えざるをえない。パトロンが現れたようだ。

ウィキペディアには1730年にフリーメイソンに入会とも書いてあるが、そうした秘密組織の人脈かもしれない。)

フランクリンは27歳の時(1733年)に、『貧しいリチャードの暦』を発売した。
これは様々な格言を書いた日めくりの暦で、アメリカとヨーロッパでよく売れた。

ここにある格言たちは、もっぱら金持ちになるための教訓である。

この暦で貧しいリチャードはこう言っている。
「しょせん蜜より甘いのはお金だけ」

この考え(拝金主義)を批判して、彼のことを金に貪欲な薄汚いほら吹きと見る者もいた。

1757年に彼は、この暦の中から秀作を集めて『富への道』という本にして出版している。

フランクリンは30歳でペンシルヴァニア議会の書記となり、やがて議員になった。

ベンジャミン・フランクリンは実用性を重視した人で、役に立つかを評価の基準にした。

望ましい結果との関係なしには善も悪も意味をなさないと考え、全ての価値を役立つかで判断した。

この結果重視の思想は、アメリカ的な傾向として定着し、結果(成果)で物事を判断する価値感がアメリカで強まっていった。

彼の人生哲学の根本は現世における成功で、死後の救いではなかった。

人間は努力で完全に近づけると信じており、神の救いは過去の遺物だった。
彼は神の啓示を否定した。

フランクリンの提案で生まれた「アメリカ哲学協会」は、郵便によって知的な人々を結ぶ試みであったが、この協会で提案された主題の一覧表を見ると、フランクリンの功利主義が分かる。

主題は酒の製造、鉱石の分析、土地の開墾などである。
抽象的な主題は少ない。

フランクリンの自伝によると、彼は1728年頃に道徳的完全に到る計画を思いついた。

その計画とは、幸福に不可欠と考えた13の徳目(節制、沈黙、秩序、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、落ちつき、貞節、謙譲)について、自分の進歩を測定するため毎週ごとに表を作って記録することだった。

具体的には、1週間を13の徳目の1つに捧げて成果を書きとめ、年に4回その過程をくり返した。

だが彼はやがて、道徳的完全を求める努力を放棄した。

彼はこう弁解している。「完全な性格は他人に妬まれたり憎まれる不便さがある。情深い者は、自分の欠点を許し、他人の顔も立ててあげなければならない。」

彼は10代の頃から、理神論者となった。

理神論とは、自然界(この世界)はそのデザインと機能の全てが神の知恵と力の証拠であるとして、奇蹟や神話や啓示を非理性的、非科学的として退ける考えだ。

理神論における神は、創造主ではあるが、宇宙を創造した後は観察に徹する存在だ。

また理神論は、専横的な権威であるとしてキリスト教会(宗教指導者や組織)を否定する。

要するに理神論は、科学で全てを説明しようとする。

だが彼は、長ずるにつれて理神論に不満を抱いた。

理神論者が善と悪との間に相違はないと考える傾向があると気付いたからである。

彼は、「理神論は真理かもしれないが、あまり有益ではない」と述べている。

彼はこう言う。「神なしでも道徳を堅持できる者は少ない。人間は宗教があってさえこんなに邪悪なのだから、無かったらどうなることか。」

要するに、真理であろうがなかろうが、神の名をかたって人々に道徳を押しつけることが役に立つと考えたわけだ。

彼は1730~40年代のアメリカの白人社会における「大覚醒運動」には、関心を示さなかった。

この運動の指導者たちが説く、神の下にある人間の非力さは、彼の哲学とは正反対だった。

大覚醒運動は、神には予定があり、それは変えられないと説いたが、彼はバカげた考えだと批判した。

フランクリンの思想に強く影響を与えたのは、コトン・マザー牧師が1710年に出した『善行論』という小冊子である。

この中でマザーは、「キリスト教徒は他人のために自分のために善行を行うことで、神の栄光を称えられる」と説いた。

後年にフランクリンは、マザーの子息に宛てた手紙の中で、「善行論は私の考えを一変させ、以後は善行を行う者であろうとしてきました」と述べている。

1749年に彼は、ペンシルヴァニア・アカデミーの設立計画書をつくり、2年後に開設にこぎつけた。
このアカデミーはペンシルヴェニア大学に発展した。

やがてフランクリンは事業で成功して金持ちになり、趣味の科学研究に従事する暇ができた。

彼は水中での推進力を研究し、両足につける水泳用のフィンの先祖を創作した。

彼の科学者としての成果が、1739~40年に発明したフランクリン・ストーヴである。

それまで屋内を暖房するストーヴは、一方にしか口が開いておらず効率が悪かった。
フランクリン・ストーヴは部屋の真ん中に置かれ、四方に熱を放射することで効率を上げた。

フランクリンは1743年に、スコットランド人の発電器を見て、初めて電気に魅かれた。

このスコットランド人はなぜ発電するのか説明できなかったが、フランクリンはその装置を買い取って研究を始めた。

当時は2種類の電気が存在するという説が有力だったが、フランクリンはこれを否定し、2つの形態を持つ単一の電流だと主張して、「ポジティブ (陽極)」と「ネガティブ(陰極)」という用語を作った。

フランクリンの科学者としての名声は、稲妻の研究によるところが大きい。

彼は稲妻は電気ではないかと疑い、1751年に高い建物に鉄製の竿を付ける実験を提案した。

翌52年5月にフランスの研究チームが、いわゆる「フィラデルフィア実験」を行い成功した。

フランクリンも稲妻を受ける実験をして、避雷針を発明した。
そして大量に売りさばき、避雷針は各家庭で使われるようになった。

彼は他にも「グラス・ハーモニカ」(楽器)を発明した。

1751年にフランクリンは、ペンシルヴァニア植民地の議員に当選した。

イギリスの植民地では貴族階級が政治を支配していたので、庶民出身の彼が議員になったのは例外だった。

1754年に彼は、オルバニー会議に参加した。

当時、イギリスとフランスがアメリカ大陸で覇権を争っており、両者共にインディアン(先住民)を味方につけようと躍起になっていた。

当時はまだ、北米の辺境(白人の未開拓地)はインディアンが暮らす土地だった。

フランス軍は1750年年代に入ると、カナダにある根拠地から南下して、アパラチア山脈に沿って砦を築き、インディアンと同盟した。

これに驚いたイギリス植民地の住民たちは、オルバニー会議を開いて対策を協議したのである。

この会議は、インディアンのイロコイ族の首長たちも参加した。

フランクリンはオルバニー会議を、イギリスの各植民地をまとめる統一組織をつくる好機と見た。

すでに彼は前年に、北米植民地・合同郵便長官・代理に任命されていた。

フランクリンはこの会議で、「植民地間委員会」の設立を提案した。
彼によるとこの委員会は、イギリス国王の代理人を長とし、各植民地の議会の代表がメンバーとなるもので、陸海軍を持ち、砦を築き、インディアンと協定を結んで(インディアンから)土地の買収を行う組織である。

この提案は採択されたが、各植民地もイギリス本国政府も反対したため頓挫した。

フランクリンはこう回想している。
「私が提案したものは、植民地の住民からは委員会に特権を与える非民主的ものとして否定され、イギリス政府からは民主的すぎるとして否定された。」

フランスとインディアンの連合軍がペンシルヴァニア植民地に近づいて来たので、ペンシルヴァニア議会は1757年にフランクリン議員を議会代表としてイギリスへ派遣した。

イギリス政府(イギリス王室)が望んでいたのは、アメリカにある植民地が従順な召使いでいる事だった。

植民地は、母国イギリスから工業製品を買いつつ、原料を母国に輸出する。

植民地は母国の産業と競争することなく、母国以外に製品や市場を求めないことが強制された。

例えばイギリス議会はヴァージニアで作られる煙草について、輸出先をイギリスに限定し、運搬もイギリス船に限定する法律を1620年代に制定していた。

イギリス議会は(イギリス帝国は)、アメリカで作られる商品について次々と規制をかける法律をつくった。

上記の締め付けに対し植民地の住民は、賄賂と密貿易で対抗した。

本国から遠く離れていたからこれは簡単で、ヴァージニア産の煙草は最も高く買う者に売られたし、それはしばしばオランダ人だった。

イギリスの植民地で活動する商人たちは、ラム酒、奴隷、西インド諸島の糖蜜の三角貿易で荒稼ぎしていたが、糖蜜はフランス領の西インド諸島から買っていた。安かったからである。

こうした実状があったので、イギリスに着いたフランクリンは、イギリス人たちから激しく怒られた。

イギリスで民主的な立憲主義が大きく進展したのは、1688年に「ホイッグ党」と呼ばれた進歩派が、人間の自然権を弾圧したとして国王ジェームズ2世を廃位にした時だった。

この革命の直後に、ジョン・ロックは『国政二論」を著して、自然権(生命、自由、財産所有の権利)を説いた。

他の者たちもロックと同じ路線の論文を発表した。

フランクリンがイギリスに着いた時、ロックの考えがすでに広まっていたから、フランクリンは自然権の観点からペンシルヴァニア植民地における領主(イギリス総督など)の権限の縮少を説いた。

だが彼はこの時点ではイギリス帝国を盲信しており、イギリス国王の臣下であることを誇りにしていて、アメリカの独立は考えてなかった。

北米でイギリスとフランスが戦争中の1759年に、イギリス政府はアメリカでの密輸に厳罰をかけると決めた。
密輸をした商人は遠く離れたノヴァ・スコシア(※カナダにある)のハリファックスの海事裁判所で陪審員なしに裁かれることになった。

イギリスの官憲やスパイは、密輸商人を摘発していった。

この戦争は、1760年9月8日にイギリス軍がカナダのモントリオールを陥として、北米におけるフランスの最後の拠点を奪った。

1762年にフランクリンは帰国したが、すでに戦争はイギリスの勝ちで終わっていた。

イギリス政府は戦争に勝つと、その戦費をアメリカに住むイギリス人たち(植民地住民)に負担させた。
これによりアメリカ植民地で人々の不満が高まった。

1763年にパリ条約が結ばれて、フランスの北米からの撤退が確定した。
するとアメリカに住むイギリス人たちは、フランス軍という脅威がなくなったことで、本国に頼る必要性が薄れた。

1764年にイギリス政府は、アメリカ植民地に駐留する軍隊の費用をまかなうため、アメリカ植民地に対して砂糖法(増税法)をつくった。

これに住民が怒った。

またイギリス政府は、アパラチア山脈より西への移住(植民)を、「1763年の宣言」で禁じた。
これはその地に住むインディアン(住民)を討伐しきった後に植民をしたいと考えたからだった。

これにもアメリカ植民地の住民は怒った。

フランクリンは、1764年の末に再びイギリスに行った。

この時アメリカ植民地では、1765年秋から施行される「印紙税」が話題になっていた。

印紙税は、新聞や小冊子などに印紙を貼ることを義務づけるもので、新たな課税であった。
これも植民地住民から不評だった。

フランクリンは印紙税を支持したが、やがて態度を改めた。

彼はイギリス下院の聴聞会で、「アメリカ植民地の人々が願っているのは、本国の人々と同じ諸権利を持つことで、課税についての決定権を求めている」と説いた。

アメリカで反対が強かったので、印紙法は1766年3月に撤廃された。

だがイギリス議会は、「アメリカ植民地の全ての事柄について我々が立法できる」と宣言し、圧力をかけた。

1767年にイギリス議会は、「植民地が輸入する鉛、塗料、紙、ガラス、茶に関税を課す」との法律を成立させた。

他にも軍隊宿営法という、アメリカの家庭に対しイギリス兵への食と住の提供を課す法もつくろうとした。

アメリカ植民地の人々は怒りを爆発させ、イギリスからの輸入を停止した。

1770年3月5日に、サミュエル・アダムズの雄弁により、ボストン市民の一部がイングランド兵と衝突した。

この衝突で市民5人が死亡し、この事件は「ボストン大虐殺」と表現された。

イギリスでは、植民地から受け取る利潤の追求ばかりが優先され、植民地の人々の苦しみは無視された。

国王ジョージ3世も、人々の苦しみに無関心だった。
彼はそもそもアメリカの地理さえほとんど知らなかった。

こうしたイギリスの無能ぶりを現地で見たフランクリンは、イギリスに対し暴言を浴びせ始めた。

1773年にイギリス議会でつくられた「茶法」は、イギリス王室が深く関わる東インド会社に対して、極めて低い価格で茶を売ることを許可した法である。

これにより東インド会社の茶は、イギリス以外の国が売る非課税の茶よりも安くなった。

これは巧妙なワナで、アメリカ人に課税された茶を買わせることで、課税に慣れさせつつ、課税の権限がイギリス議会にあることを認めさせるものだった。

これを見抜いたアメリカ人たちは、東インド会社の茶をボイコットした。

ボストンで1773年12月16日に、一団が茶を積んだ船に乗りこみ、茶箱を叩き壊した。
これが「ボストン茶会事件」である。

フランクリンはこの事件を、茶の所有者への暴力行為と呼び、早急な賠償を訴えた。

フランクリンは「この事件のせいでアメリカ植民地の人々はヨーロッパ各国の同情をかなり失った」と主張した。

1774年の初頭に、イギリス議会はボストン茶会事件への報復を決定し、ボストン港の閉鎖やマサチューセッツ憲法を改定して自治権を制限すること、北米駐留軍のトマス・ゲイジ司令官をマサチューセッツ総督にして派遣することを決めた。

アメリカ植民地の人々をさらに怒らせたのは、「ケベック法」であった。

1774年に成立したこの法は、10年前にイギリスがフランスから獲得したケベック地方についての法律で、総督を終身制とし、代議制議会を禁じ、カトリック教会を奨励した。

アメリカ植民地の人々は、ケベック法がアメリカ全土に拡大するのを危惧して、1774年9月にフィラデルフィアで第1回大陸会議を開いて話し合った。

この会議で、対イギリスの貿易をボイコットすると決めた。

1775年の初め、1764年にイギリスに行って以来、いまだにイギリスのロンドンで暮すフランクリンは、友人のジョウゼフ・ギャロウェイに宛てて、次のように書いた。

「イギリスは腐り果てた国で、あらゆる層の人が極度に腐敗しています。

アメリカ植民地の人々の輝かしい美徳に思いを至すと、イギリスとの密接な関係から幸福が得られるとは思えません。」

(※今回勉強して知ったが、フランクリンはアメリカで独立運動が盛り上がった時期、イギリスでのんびり暮らしていた。
彼が独立の功績者というのは、ほぼ嘘だと思う。)

フランクリンはイングランドとの戦争は望んでおらず、単に離別すべきだと考え、その方向でロンドンで説いた。

ところが元マサチューセッツ総督のトマス・ハッチンソンの書簡が盗まれて公表される事件に関わったため、フランクリンに疑惑の目が向けられた。

これ以上ロンドンに留まると逮捕されると恐れた彼は、1775年3月20日にフィラデルフィアに向かう船に乗った。

このアメリカへの船旅中に、マサチューセッツでイギリス兵とアメリカ植民地の民兵が衝突して、いわゆる独立戦争が始まった。

1775年5月5日にフランクリンはフィラデルフィアに着いたが、すぐに第2回大陸会議のペンシルヴァニア代表に選出されたので、この会議に出席した。

この会議は、マサチューセッツの民兵たちの総司令官にジョージ・ワシントンを任命することや、戦費調達のための紙幣発行を決めた。

フランクリンは75年7月にマサチューセッツのチャールズタウンでイギリス軍が行った略奪行為に怒り、「私は半分以上も和解する気を失った」と述べた。

その一方で、フランクリンらの第2回大陸会議は、イギリス国王ジョージ3世に請願書を送り、「アメリカ植民地に対するイギリス議会の権限を貿易問題にのみ限るなら、我々は喜んでイギリス人として留まります」と伝えた。

だがジョージ3世と彼の大臣たちは、立法と課税の全権を持ち続けたかったので、請願書を無視した。

それだけでなく、北米にさらに2.5万人のイギリス軍を送ることを決めた。

1776年になる頃に、ようやくフランクリンもイギリスから独立するしかないと気付いた。

1776年1月に出版されたトマス・ペインの著作『コモンセンス』は、イギリス国王を「過去の重苦しい遺産」とこき下ろし、「君主制は自由と矛盾するもので、アメリカは共和制を採るべきだ」と説いた。

1776年6月、フランクリンら大陸会議のメンバーは、アメリカの独立宣言の準備をしていた。

独立宣言を起草したのはトマス・ジェファーソンだが、フランクリンの意見も取り入れられていた。

独立宣言の文書は1776年7月4日に大陸会議で承認された。

独立宣言は、冒頭に「すべての人は平等に創られている。すべての人は一定の不可侵の権利を持っている。その権利には生命、自由、幸福の追求が含まれる」と書いている。

独立宣言の署名式の時、ジョン・ハンコックはこう述べた。
「我々は一致団結しなければならない」

すかさずフランクリンが応じた。
「もちろんだ。一致団結しなければ別々に(撃破され)みんな絞首刑さ。」

独立したアメリカは、イギリスの宿敵であるフランスと同盟することにした。

1776年の末にフランクリンらの使節団が、フランスに向かった。

1778年2月6日にフランスとの同盟条約が結ばれた。
これは独立戦争の転機となったサラトガの戦いでアメリカ軍が勝ってから4ヵ月後のことだった。

フランス軍の参戦によりアメリカ軍が優位となって、1781年10月19日にイギリス軍はついに降伏した。

その後、和平に向けた会議が開かれ、1783年9月3日にパリ平和条約が結ばれた。

この条約により、アメリカ合衆国は主権国家と認められた。

だがアメリカ合衆国の南と西にはスペイン領があり、イギリスはカナダを保持していたから油断はできなかった。

フランクリンは1787年にアメリカ政府の立憲会議に出席し、連邦政府の再建作業に 加わった。

彼は1790年に死去した。

(以上は2026年1月30日~2月7日に作成)


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