(以下は『人物アメリカ史(上)』ロデリック・ナッシュ著から抜粋)
トマス・ジェファーソンは英国の植民地ヴァージニアの出身である。
彼の前任の大統領たち、ジョージ・ワシントンとジョン・アダムズは、貴族興味で華やかな催しごとを好んだ。
だがジェファーソンは違った。
大統領就任式の時も、彼は豪華な馬車を拒絶し、近衛兵を無視して、自分の足で歩いて式場に向かった。
英国領のヴァージニアに入植する者にとって、ジェームズ川は重要な輸送路だった。
ウィリアム・バードやロバート・カーターといった大プランターたちは、ジェームズ川沿いの低地に何十エーカーもの領地を所有した。
彼らの領地では奴隷を働かせて煙草が作られ、プランテイションの船着き場から煙草の入った大樽が輸出された。
煙草で大儲けできるので、プランターたちはジェームズ川に沿って次々と植民地を拓いた。
トマス・ジェファーソンの父ピーター・ジェファーソンも、煙草で大儲けした1人である。
ピーターは測量技師としてスタートしたが、土地と奴隷を買ってプランテイションを経営した。
近くに住む測量技師兼軍人のジョージ・ワシントンも同じであった。
ピーターが1739年に結婚したジェーン・ランドルフは、ヴァージニアの上流階級の娘で、ジェファーソン家は貴族主義者たちの仲間入りをした。
ピーターとジェーンの第1子として、トマス・ジェファーソンは1743年4月13日に生まれた。
彼は英才教育を受けて、5歳の時に家庭教師がつき、9歳の時にギリシャ語とラテン語の集中教育を受けた。
彼は17歳でウィリアム・アンド・メアリ大学に入学した。
この学校は、北米ではハーバード大学に次ぐ古さの大学で、彼は法律を専攻した。
1762年に彼は、16歳のレベッカ・パーウェルに恋したが上手くいかなかった。
1767年にトマス・ジェファーソンは弁護士試験を受けて合格した。
当時のヴァージニアにおける雄弁家の1人が、パトリック・ヘンリーだった。
ヘンリーは1763年に「司祭の訴訟」として知られる事件で人々に感銘を与えた。
司祭とはヴァージニアの英国国教会の司祭たちのことで、彼らは給料の値上げを訴えたが、当時の植民地の人々は国教会と英国政府に不信を抱いており賃上げに反対した。
ヘンリーはこの裁判で、陪審員たちに向かって演説し、英国王ジョージ3世を糾弾して「国王は暴君だ」と説いた。
パトリック・ヘンリーは代議士となり、1765年5月30日にヴァージニア代護院で、英国政府がアメリカの植民地に押しつける「印紙法」を拒否する、7つの決議案を支持する演説を行った。
代議院は7つの決議案のうち4つを採択したが、これはアメリカがイギリスから独立する闘争(独立戦争)の土台作りを助けた。
トマス・ジェファーソンはこのヘンリーの演説を傍聴して感激し、「暴君(ジョージ3世)への反逆は神への従順である」と考えるようになった。
1760年以前のアメリカにある英国の植民地は、英国王の任命する役人が権力者となり、政治は一部の者とその一族に支配されていた。
例えばジェファーソンの住むヴァージニアを牛耳っていたのは、代議院議長と収入役を兼ねるジョン・ロビンソンだった。
だが1763年頃になると、アメリカで独立の機運が高まってきた。
人々は植民地の支配階級と英国王室を同一視し、その打倒を目指すようになってきた。
ヴァージニアでの独立運動のリーダーはパトリック・ヘンリーだったが、彼は小農民と小規模な商人に支持されていた。
大プランターを持つ大商人(貴族階級)と小農民たちの戦いは、1世紀前から起きていた。
ナサニエル・ベーコンは特権階級に反乱を起こしたが、失敗に終わり、23名が処刑されていた。
ヴァージニアの隣のノースカロライナでも、農民集団がプランターに決戦を挑んでいた。
パトリック・ヘンリーたちは、ヴァージニアの政治を牛耳るジョン・ロビンソンの不正会計を明らかにし、ロビンソンは失脚した。
そしてヴァージニアの代議院はヘンリーやジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンの手に握られた。
ジェファーソンは1769年に26歳で代議院に初選出された。
代議士となった彼は、ますます英国への抗議に身を入れた。
1773年に彼は、パトリック・ヘンリー、リチャード・ヘンリー・リーと共に、アメリカ植民地を団結させるための「通信連絡委員会」をつくるよう呼びかけた。
通信連絡委員会は、前年にマサチューセッツ植民地でサミュエル・アダムズが始めた組織だが、通信連絡はマサチューセッツに限定されていた。
これを各植民地をつなぐ大規模な通信に拡大しようと呼びかけたのである。
1774年 にマサチューセッツ植民地でボストン茶会事件が起き、英国議会がこれに対して懲罰を決めると、トマス・ジェファーソンはマサチューセッツ側についた。
彼はボストン港法が発効する1774年6月1日に、ヴァージニアで24時間の断食を呼びかける法案を提出した。
これに激怒したヴァージニアのジョン・ダンモア総督は、代議院を解散させた。
ヴァージニアの議員たちは屈せず、会合を開いて、各植民地が代表を送る議会の創立を提案した。(これが大陸会議となる)
これは英国王が任命する総督と戦うことを意味し、革命というべき事態であった。
ジェファーソンたちは、自分たちが代表を送っていない英国議会に支配されることに、同意しなかったのだ。
だがジェファーソンは革命は呼びかけなかった。
彼は英領アメリカにおける英国議会の支配力を弱めようとしただけだった。
この時点では、一部の急進派を除けば、すべてのアメリカ植民地人は自分を忠実な英国臣民と見なしていた。
🔵アメリカ独立宣言の起草と署名
1775年6月に第2回・大陸会議が開かれ、トマス・ジェファーソンはヴァージニア植民地の代表として参加した。
この大陸会議は、英国首相フレデリック・ノースからの和解案を拒否し、いくつかの重要文書の起草をジェファーソンに任せた。
1776年6月7日に大陸会議は、リチャード・ヘンリー・リーによる
「連合した植民地たちは、自由にして独立の国家である」との動議を可決した。
ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファーソンらの「5人委員会」は、大陸会議の意図に沿った宣言の起草を命じられた。
本来ならば年配のフランクリンが第一稿を書くべきだが、病床にあった。
そこでジェファーソンはアダムズに書くように勧めたが、アダムズは「私は嫌われ者で信用されてない。君はその正反対だし、私より10倍も文章が上手い」と答えた。
こうして33歳のジェファーソンが下宿先に引きこもって、「独立宣言」を書き始めた。
彼は独立宣言の起草に2週間以上を費やし、練り上げた1800語が完成した。
これにフランクリンやアダムズが目を通し、いくつかの修正をした。
6月28日に大陸会議はこの文章を検討し、7月4日に署名された。
ジェファーソンは独立宣言が、他の人々の思想や著作の集積であり、時代の産物であることを隠さなかった。
後年に彼は、「独立宣言には独創性は求めず、かといって過去の文書からの転写でもなく、アメリカ精神を表現した」と書いている。
独立宣言はジョン・ロックなどの思想家に多くを頼っているが、通例になっていた「生命、自由、財産」のトリオを、「生命、自由、幸福の追求」に変更している。
この置き替えは、ジョージ・メイソンが起草した1776年6月12日の「ヴァージニア権利憲章」にもあり、明らかジェファーソンはこれを真似た。
独立宣言が発表された時、多くの植民地人はまだ英国王ジョージ3世に忠誠しており、 特に「親英派」(トーリー)は独立を望まず独立運動を妨害していた。
だから独立宣言は、アメリカ革命の正当さを語る、宣伝書でもあった。
ジェファーソンは啓蒙主義を用いて、ジョージ3世は邪魔者であり、自由に対する脅威であると説いた。
🔵独立宣言後のアメリカ
アメリカは独立してみたものの、13の国(州)はバラバラで、それぞれに我が道を行き経済は混乱した。
連邦政府を置こうという努力は、常に不和によって実らなかった。
そのうえ革命中と革命後にアメリカから逃げ去った、8万人の親英派(王党派)もいた。
一方、アメリカ革命をしたジェファーソンたちは、「アメリカ人は神に選ばれた民であり、人類を正義の道に歩くのが天命である」との考えに固執した。
フィリップ・フリノーは、「重要性から言えば、アメリカの独立はキリストの誕生に匹敵する出来事だ」と述べた。
独立戦争が終わった後は、それぞれの植民地はヨーロッパの小国のように別々の道を行くであろうと思われた。
ジェファーソンの興味も、独立宣言が発表されたとたんに、故郷のヴァージニアに向かった。
彼の考えでは、ヴァージニアの法と政体を作り変えることが現在の論議の全てで、悪しき政府ができてしまったら英国に支配されていた頃と同じになってしまうのであった。
(以上は2026年2月10日、5月25日に作成)