(毎日新聞2013年4月8日から抜粋)
1955年に「原子力基本法」が成立して以降、原子力政策を担ってきたのは自民党政権である。
日本が原発の推進に舵を切ったのは、1955年だった。
そこには、アメリカの政策が色濃く反映していた。
アメリカのアイゼンハワー大統領は、1953年12月8日に国連で、「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」の演説をした。
そして、ウランなどを国際的に管理して、原子力を電力に利用する事を提唱した。
この演説が、IAEA設立のきっかけになった。
だがアメリカは、2ヵ月後の54年2月に、「アメリカの同盟国に、優先的に原子力技術を与える」と表明した。
原子力は、対ソ連の戦略(冷戦構造)に組み込まれたのである。
アメリカの表明に機敏に反応したのが、当時は改進党にいた中曽根康弘である。
中曽根らが主導して、1954年3月に初めて「原子力開発の予算案」が国会に提出され、4月に成立した。
ところが、予算案が提出される前日に、アメリカがビキニ環礁で水爆の実験を行い、日本の漁船が巻き込まれて被曝した事が発覚した。
原爆・水爆への禁止の署名運動が広がり、55年8月までに3000万人を突破した。
そこでアメリカ政府は、日本人の反原子力感情を取り除くことに腐心し、手を打った。
正力松太郎(読売新聞の社長で、カネでCIAに雇われた人物)が後押しした、1955年に始まった「原子力の平和利用のキャンペーン」は、その1つであった。
1955年に、『日米の原子力協定』が結ばれた。
そして、原子力基本法などの関連3法案も成立した。
56年1月には、『原子力委員会』が発足し、委員長には正力松太郎が就任した。
原発を推進したい人々は、「資源に恵まれない日本にとっては、原子力を活用する以外に繁栄の道はない」と主張した。